◇◆◇日々のみ言葉
2016年1月9日(土)
◎聖書箇所 【マルコの福音書9章42節】
9:42 また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。
◎ショートメッセージ
《ここでも主イエスは、不思議なことを言われたのだ。
それは、「わたしを信じるこの小さい者たちのひとり」と言うことである。
十二使徒全員の名前を私たちは知っている。なぜなら3つの共観福音書のすべてに書かれてあるからだ。
『イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。
さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。(マタイの福音書10:1~ 10:4)』
『さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。
こうして、イエスは十二弟子を任命された。そして、シモンにはペテロという名をつけ、ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、このふたりにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。
次に、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党員シモン、イスカリオテ・ユダ。このユダが、イエスを裏切ったのである。(マルコの福音書3:13~ 3:19)』
『このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。
すなわち、ペテロという名をいただいたシモンとその兄弟アンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ、マタイとトマス、アルパヨの子ヤコブと熱心党員と呼ばれるシモン、ヤコブの子ユダとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。(ルカの福音書6:12~ 6:16)』》
マタイはマルコの福音書を土台として、福音書を書き記したことは、ほぼ間違いないことである。ルカは綿密に調べて、書き記した。よってマタイとマルコは、同じ名前を書き記しているが、ルカにおいては、「タダイ」ではなく、「ヤコブの子ユダ」となっている。
またヨハネの福音書によれば、「バルトロマイ」は「ナタナエル」と同一人物であることが分かる。
主イエスは言われた。
「わたしを信じるこの小さい者たちのひとり」と。
つまり、この者の名前は知られていないと言うことである。もちろん、彼にも名前がある。しかし十二使徒ほど有名ではないことは、一目瞭然である。
「わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」
この主イエスのお言葉は、要するに主イエスの弟子として働き、主に用いられた者に対しての警告の言葉である。
具体的には、この場合、悪霊追い出しをしていた別の群れの者たちに、その働きをやめさせたヨハネに対してである。
まさにゼベタイの子ヤコブとその弟ヨハネに、主イエスがボアネルゲ、すなわち、「雷の子」という名をつけられた、ということは、的を射ていると言える。
「信仰の弱い者」、「小さな信仰の者」、もちろん、ずーっとそのままと言うわけにはいかない。信仰が成長して行って欲しいことは、聖霊なるお方も同じ思いであるはずだ。
しかし、そのような者たちを、「裁いてはいけない」と言うことである。
主イエスが知らない弟子たち。隠れた弟子たち。その者たちが、主イエスの御名を使って悪霊を追い出していた。それを使徒ヨハネは、憤慨してやめさせた。
やめさせることはなかったのだ。
イエス・キリストを主と告白する者。イエス・キリストが、まことの神の御子であることを、心から信じ、「救い主」であり、「主」と告白する者は、皆が兄弟姉妹であり、そして仲間なのである。
天国においては、「○○教会」あるいは「プロテスタント」「ローマ・カトリック」と言う名札は、誰もつけないに違いない。》