◇◆◇日々のみ言葉
2016年1月11日(月)
◎聖書箇所 【マルコの福音書9章45節~46節】
9:45 もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
9:46 [本節欠如]
◎ショートメッセージ
《主イエスは、厳しい「たとえ話」を、続けてなされた。
最初に、
「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。」と言われ、
次に、
「もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」と言われたのだ。
9:46は、9:44と同じく[本節欠如]となっているが、別の写本には、48節と同じ言葉が入っているものがある。
とすれば、本来はこうなる。
『9:45「もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
9:46そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」』
この主イエスのお言葉は、実は旧約聖書からの預言の引用であることは、前日に学んだ。すなわち、イザヤ書の最後の章の最後の節である。
「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる。」(イザヤ書66:24)』
「もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。」
これは、あくまで「たとえ」であって、主イエスは、本当に「足を切り捨てよ」と言われたのではない。
昨日のたとえでは、「手」が、悪いことに用いられることを学んだ。実際に、盗む者は、手を使って盗みを働く。また剣や弓などの武器も、手に持って、人を殺めたりする。
それでは「足」は、何なのであろうか。
キック・ボクシングや空手では、確かに「足」も武器になる。
しかし主イエスが、言われていることは、そのことに限ってではないことが分かる。つまり、すべての人に当てはまる「たとえ」でなければ、おかしいことになる。
よく、「足が付く」と言う。これは、犯人の足取りが分かることであり、または犯罪事実の解明となる手がかりが見つかることを意味する。
また「足を洗う」と言う。これは、ヤクザなどの賤しい職業をやめて堅気になることであり、悪い所行をやめてまじめになることを意味する。
「足」こそが、罪を犯す者を、犯そうとする者の「手」を運ぶのだ。
アダムとエバは、神が、「取って食べてはならない」と命じられた「善悪の知識の木」まで、「足」で、歩いて行き、そして「手」で、その実を取って食べたのである。
その人の「足」が、罪の方へ、誘惑へ、その人を向けさせるのだ。
それゆえ主イエスは言われたのである。
「もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」と。
しかし「手」だけでなく、「足」も良いことに用いることが出来る。
使徒パウロはこう勧めている。
『遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんと立派でしょう。」(ローマ人への手紙10:15)』
私たちは、「足」を用いて、今、苦しんでいる人や助けを求めている人、また悲しんでいる人の所に行き、主にあって慰め、共に分かち合い、元気づけることが出来る。
今日、父なる神は、主イエスは、そして聖霊なるお方は、あなたの「足」をどこへ、誰の所へ向けさせようとしておられるのだろうか。
今日も、あなたの来ることを待っている人がおられるに違いない。》