◇◆◇日々のみ言葉
2016年1月12日(火)
◎聖書箇所 【マルコの福音書9章47節~48節】
9:47 もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
9:48 そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。
◎ショートメッセージ
『主イエスは、厳しい「たとえ話」を、続けてなされた。
最初に、
「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。」と言われ、
次に、
「もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」と言われ、
そして、
「もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」と言われたのである。
まず、この「あなた」とは、誰を指しているのか。
それは、主イエスが、「最も愛された弟子」であるヨハネに対してである。
そればかりではない。私たち、すでに救われた者。すなわちクリスチャンに対して。特に、主の働き人に対してでもある。
この頃、主イエスは、シモン・ペテロとゼベタイの子ヤコブとその弟ヨハネを、特に側近の弟子として、用いられ、また訓練されていた。
主イエスは、まさしく「時の人」であり、多くのユダヤの民ばかりではなく、異邦人にも尊敬され、また慕われていた。
主イエスには、十二使徒を始め、次に続く弟子として、「六十人」もしくは「六十二人」の弟子たちが付き従っていた。あるいは、さらに弟子志望の者たちも多くいたに違いない。
その弟子集団の中において、ヨハネは自他共に認めるトップスリーの弟子であったのだ。しかもヨハネは、一番若かったと言われている。
主イエスが、ヨハネをシモンの弟アンデレと共に、弟子として迎え入れた時、バル・ミツバを終えたばかりで、14・15歳ぐらいであったかも知れないのである。
それゆえ、主イエスは弟のように、ヨハネを可愛がっていたと思われる。またヨハネとヤコブの母サロメは、つまりゼベタイの妻は、主イエスの母であるマリヤと姉妹であった。おそらく母マリヤが姉であったと思われる。
そうなると主イエスが三十歳になられてから公生涯を始める以前より、従兄弟同士の交わりも、当然あったと考えるのが普通であり、ヨハネが生まれた頃から、実は主イエスは知っていたとしても、不思議なことではない。
そのような環境もしくは状況の中において、ヨハネ自身が、高慢になることはやむを得ないかも知れない。しかし、主イエスは、その愛する弟子に厳しくさとられたのだ。
「手」、「足」、そして、最後に「目」である。
すべての罪の誘惑は、この「目」からやって来る。
最初の人であるアダムとエバが罪を犯した時のことを、創世記はこのように書き記している。
『そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。(創世記3:6)』
エバは、「見た」のだ。そして、その木の実は、「目に慕わしく」見えたのであった。
男性ならば、「見目麗しい美女」を見たら、心ときめくことは当然であり、自然である。
女性ならば、「スタイル抜群のイケメン男性」を見たら、同じように心ときめかすことも、普通であり自然である。
「目が欲する物」を、私たちは手に入れようとするのだ。それゆえ主イエスは、言われたのである。
「もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。」
これは、あくまで「たとえ」であり、実際にそのようにせよ、と主は言われたわけではない。
「見るもの」に注意せよ、と言うことだ。
私たちは、「見て徳になる物」、また「見ても益にならない物、かえって害をおよぼす物」を、見ることを選択することが出来る。
もし、毎日のように「ポルノ雑誌」を見ていたとしたら、その人の心をしめる物は一体何になるのだろうか。そしてその人の心には、何が宿るのであろうか。欲望か罪か。
あるいは、毎日のように、父なる神が創造された美しい「大自然」を見ていたとしたら、その人の心には、何が宿るのであろうか。賛美と感謝か。
そして私たちの「目」は、見るだけではなく、目で読む能力が与えられている。もし、毎日、聖書のみ言葉を読んでいたとしたら、私たちの心に何が宿るのであろうか。
神が宿ると信じる。とすれば、私たちは何をすべきなのか。一目瞭然ではないか。》