• 日々のみ言葉 2016年1月16日(土)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2016年1月16日(土)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書10章6節】

    10:6 「しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。」

    ◎ショートメッセージ

    《パリサイ人たちは、主イエスを試そうとして、離婚について質問して来た。
     主イエスは、「モーセは、何と命じたのか」、と聞かれた。それに対してパリサイ人たちは、「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許した。」と答えたのである。
     その答えを聞き、主イエスは、「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのだ。」と言われた。

     そして、主イエスは「結婚」について、彼らに話し始めたのである。その最初の言葉が、今日の聖書箇所となる。

    「創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。」

     創世記によれば、

    『その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。
     神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
     神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。
     一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。
     第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。
     神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
     神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
     その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
     神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。
     そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
     こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」(創世記2:7~2:23 )』》

     これが、神による人の創造である。創世記によれば、人間は最初から男と女に創造されたわけではないことが分かる。まず最初に男アダムが創造され、その後、アダムのあばら骨から女が創造された、と書かれている。

     多くの人々は、このみ言葉がおとぎ話か、空想の世界の話として、まともに信じようとはしない。
     小・中・高等学校では、いまだにダーウィンの進化論が教えられているし、生物がアメーバから進化し、猿が祖先と信じている。まさに悪魔・悪霊の偽りのわざが功を奏していると言うわけだ。

     驚くことに、キリスト教のある教派では、創造論ではなく進化論を信じている教会そして牧師がいると言う。とは言っても私個人が確認したわけではなく、人づてで耳に聞いた話であるので、真意は分からないが、リベラル系の教会ではありそうな話である。

     聖書は、一言一句誤り無き「神の言葉」である。そこに書かれたことは、すべてが「神の言葉」であり、神の啓示である。そして真実であり真理である。この世界は、広大な宇宙も太陽系も地球も、すべての生き物も、私たち人間も、神によって創造されたのだ。

     さて話が大分脇道にそれてしまったが、全地全能なる父なる神が、人を創造された。そして男と女に創造された。この時から、神によって「結婚」が定められた。「結婚」については、聖書に書かれた通りである。

     創造のみわざの時に、そこには、主イエスもおられたと、私は信じる者である。また神が吹き込まれた「いのちの息」こそが、聖霊様であると私は信じる者である。それゆえ、人は霊的存在なのである。「結婚」は単なる肉体的結合ではないのだ。》

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