◇◆◇日々のみ言葉
2016年1月17日(日)
◎聖書箇所 【マルコの福音書10章7節~8節】
10:7 「それゆえ、人はその父と母を離れて、
10:8 ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。」
◎ショートメッセージ
《主イエスは、パリサイ人たちに、「結婚」について教え始められた。
「創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。」
そして、その続きの言葉が、今回の聖書箇所である。
実は、これは創世記からの引用である。
創世記によれば、
『こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。』
(創世記2:20~2:24)』》
このみ言葉は、実は不思議な言葉である。なぜなら、アダムとエバには父母がいないはずだからである。アダムは神が土から創造された。そしてエバは、アダムのあばら骨から創造されたからである。もちろんアダムとエバにやがて子供が与えられ、最初の父と母になることは言うまでもない。
世の中には多くの男性が存在し、また多くの女性が存在する。その中において不思議な出会いがあり、結婚にいたることとなる。
私たちは、神の存在を知っている。そしてそのお方が創造主であることを知っている。またそのお方の名前をも知っている。それは人間に、この方の御名以外に救われることのない名前、主イエスである。
主イエスの母マリヤには、婚約者ヨセフがいた。またヨハネとヤコブの母サロメには、その夫ゼベタイがいた。そしてシモン・ペテロには妻がいたことも分かっている。また他の使徒たちも、主イエスの弟であったヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンも結婚したことをパウロは、その手紙に書き残している。
『私たちには、ほかの使徒、主の兄弟たち、ケパなどと違って、信者である妻を連れて歩く権利がないのでしょうか。(第一コリント9:5)』
彼らと妻との出会いに、果たして父なる神は介入されていないのであろうか。主イエスの母マリヤとその婚約者ヨセフとの出会い、そして結婚には、父なる神が介入されていないのであろうか。そうではないことを、私たちは知っている。ヨセフは、天使ガブリエルの夢にとって、マリヤを妻に迎えるのである。
キリスト教には、いやまことの生きておられる神の信じている者たちには、偶然は何一つない。すべてが必然なのである。
マリヤにヨセフが与えられたように、ヨセフにマリヤが与えられたように、あなたにその妻が、あなたにその夫が与えられたのは、すべては神のご計画の中に、神の手の中にあったことなのである。
『それゆえ、人はその父と母を離れて、ふたりの者が一心同体になるのである。』
また「結婚」は、単なる肉体的結合だけにはとどまらない。
『それで、もはやふたりではなく、ひとりなのである。』
この言葉は何を意味するのか。それは霊的な結合があることを意味する。
私たちは霊的存在なのである。本当の私たちは、「霊」であって、その人の体の中に住んでいるのである。肉体は、その人の霊の住む「家」なのだ。
肉体的結合によって、実は「霊」と「霊」の結合も起こることとなる。
それゆえ、神が結ぶ合わせ給うたものは、人は離してはならないのである。たとえ離婚したとしても、互いの相手が生きている限り、その霊的結合は解かれることはない。》