• 日々のみ言葉 2016年1月21日(木)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2016年1月21日(木)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書10章14節】

    10:14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」

    ◎ショートメッセージ

    《主イエス様は、弟子たちを伴って、ヨルダン川の向こうに行かれました。そして日が暮れかかった頃、カペナウムに戻って来られたのです。主イエス様も弟子たちも、丸一日の宣教と奉仕の為、かなり疲れたおられたと思います。
     するとそこへ、何とたくさんの母親たちが、子供を連れてペテロの家に押しかけて来た、と言うわけです。この頃、ユダヤだけでなく、近接の異邦人の国においても、主イエス様の評判は、非常に高まっていました。
     母親たちは、自分の子供たちに、何とかして主イエス様に触れていただき、祝福のお祈りをしていただこうとして、みもとに連れて、やって来たのでした。

     ところが、弟子たちは、母親たちと子供たちを、厳しくしかりつけたのです。

     主イエス様は、それをご覧になられました。そして「憤って」と書かれてありますが、原語は、もっと強い言葉で、本当の意味は「激怒」して、弟子たちを叱責したのです。

     福音書において、主イエス様が、ご自分の弟子たちに、「激怒」されたことは、この時、ただ一回だけでした。
     弟子たちは、「これ以上、主イエス様の手をわずらせてはならない。主イエス様を休ませてあげなければ。」と言う思いがあったからこそ、主イエス様のことを思って、押しかけて来て母親たちと子供たちを叱りつけたわけです。

     もちろん主イエス様には、弟子たちの思いが分かっておられましたが、弟子たちには、主イエス様の御思いがまったく分かっておらず、おそらく主イエス様が、なぜこんなにも激怒されておられるのか、皆目見当もつかなかったに違いありません。

     あるいは、「自分たちは何か悪いことでもしたのだろうか。」と、顔を見合わせたに違いないのです。

     マルコは、あえて主イエス様が弟子たちを叱りつけた「叱責の言葉」を書き記さなかったのですが、主イエス様は、弟子たちを叱りつけた後、このように語られました。

    「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」

     当時のユダヤにおいては、子供は、日本のように「純真無垢」な存在ではなく、「つまらない者」あるいは、「取るに足らない者」「価値の無い者」と思われていたのでした。

     聖書は、「子供には何の罪も無い」とは教えてはいません。主イエス様が、神の国は子どものような者たちの国だと言われたのは、子供には罪が無いのだと言われたわけではないのです。人間は、母親の胎内に宿ったその時から罪を持った存在なのです。

     詩篇51篇で、ダビデはこう謳っています。

    『ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。(詩篇51:5)』

     主イエス様が言われた真意は、「あなたがたも悔い改めて、この子供たちのように、素直に神の国を受け入れる者でなければ、神の国に入ることはできないのです。」と言うことなのです。
     子供のようになるために、後戻りしなさい、と言う意味ではありません。「素直さ」が求められているのです。人は大人になって行くにつれ、人の心は、どんどん「頑な」に、コチコチになって行きます。
     その典型がパリサイ人や律法学者たちなのです。
     ところが、子供たちは、「素直に」信じ受け入れることが出来るのです。もちろん罪の性質を持ってはいるのですが、まだ「疑う」ということをあまり良く知りません。

     しかし私たち大人は、信じることよりも疑うことに慣れてしまっているのです。それゆえ、私たちの心は、多かれ少なかれ「頑な」になってしまった、いや悪魔・悪霊どもによって、「頑な」にされたのです。

     この後の出来事については、マルコはその福音書に書き記してはいませんが、主イエス様は、子供たち一人一人に按手され、祝福を祈られ宣言されたと思います。また、子供たちにも分かりやすいように、ご自身のことについて話されたはずです。この場に居合わせた子供たちは、皆が救われたと私は確信します。
     それは、主イエス様ご自身が、はっきりと弟子たちに宣言された言葉によって成就したに違いないからです。主イエス様の語られた「神の言葉」こそに、保証があるのです。

    「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」

     主イエス様に、直接、按手を受け、そして祝福の祈りを受けることが出来た子供たちは、何と幸せな人たちでしょうか。きっと信仰を全うして、ある者は伝道師に、そしてある者は殉教していったと、私は勝手に想像して思い巡らすのです。この時の体験こそが、この子供たちの信仰を生涯にわたって、支え続けたと、私は信じる者なのです。
     「信仰」は、決して理屈ではありません。主イエス様のお言葉を、素直に受け入れる。主イエス様の約束されたことを素直に信じる。それが「信仰」なのだと思っています。》

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