◇◆◇日々のみ言葉
2016年1月22日(金)
◎聖書箇所 【マルコの福音書10章15節~16節】
10:15 「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
10:16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
◎ショートメッセージ
《主イエス様は、弟子たちを伴って、ヨルダン川の向こうに行かれました。そして日が暮れかかった頃、カペナウムに戻って来られました。主イエス様も弟子たちも、丸一日の宣教と奉仕の為、かなり疲れたおられたに違いありません。
するとそこへ、何とたくさんの母親たちが、子どもたちを連れてペテロの家に押しかけて来たのです。
この頃、ユダヤだけでなく、近隣の異邦人の国においても、主イエス様の評判は、非常に高まっていました。
母親たちは、自分の子どもたちに、何とかして主イエス様に触れていただき、祝福のお祈りをしていただこうと、みもとにやって来たのでした。
ところが、弟子たちは、母親たちと子どもたちを、厳しくしかりつけたのです。
それを見ていた主イエス様は、弟子たちに激怒され、弟子たちをしかりつけたのです。そして弟子たちを諭すよう教えられました。
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」
この最初のお言葉については昨日学びましたが、今日の聖書箇所は、主イエス様が語られた、続きの言葉であります。
まず最初に主イエス様は、
「まことに、あなたがたに告げます。」、と言われました。
この言葉のギリシャ原語は「アーメン」であり、ヨハネの福音書では、「まことに、まことにあなたがたに告げます。」と2回繰り返されています。
マタイ、マルコ、ルカにおける3つの共観福音書においては、「まことに」は1回ですが、合計50回におよび、また第4福音書と言われるヨハネにおいては、25回におよんでいます。
これは、主イエス様が、弟子たちに「絶対的真理」と、言っても良いほどの大切な教え、「奥義」を語られる時に、必ず言われるお言葉です。
「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
何と言うお言葉でしょうか。
「決して、神の国にはいることはできない。」
「決して」なのです。
では、「子どものように神の国を受け入れる者」とは、どのような意味なのでしょうか。それは、子どもは、素直に信じ受け入れることが出来ると言うことなのです。
彼らももちろん罪人です。人は誰でも罪の性質を持ったまま、母親の胎内に宿り、そして生まれてきます。
しかし、子どもたちは、また幼子は、まだ人生経験が少なく、疑うことに慣れておらず、素直に信じ、受け入れる、柔らかな心を持っているのです。
主イエス様は、子どもたちのように、素直に神の国があることを信じ、受け入れる者、すなわち、そのような心で主イエス様を「救い主」として、「メシヤ」として、「キリスト」として、「神の御子」として、いや「人となられた神様」として、信じ受け入れる者は、信じ受け入れる大人は、神の国にはいることが出来る、と言われているのです。
その反対に、主イエス様を、信じ受け入れることが出来ない者たち。
例えば、いつも主イエス様を陥れようとしたパリサイ人や律法学者たちは、神の国に決して入ることはできない、と言われたのです。
旧約聖書に精通し、ユダヤの人々に「神の国」について教え、そして自分たちこそが「神の国」の住人として相応しいと、自負していたパリサイ人や律法学者たちは、「神の国」に入れないのです。これは何と言う皮肉ではないでしょうか。
主イエスは言われました。
『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネの福音書14:1~14:6)』》
「主イエス様を通してでなければ」
子どものように、素直な心で、このお方を信じ受け入れる者でなければ、「天の御国」には、「神の国」には、決して入ることができないのです。
主イエス様は、弟子たちを諭らさせると、子どもたちを御もとに呼ばれ、彼らを抱き、そして彼らの上に手を置いて祝福されました。
その光景を、おそらく側で見ていた母親たちの満足した顔が思い浮かびます。子どもたちを見詰められる主イエス様の優しい眼差しも。「神の国」とは、このお方が永遠に、共におられる所なのです。》