◇◆◇日々のみ言葉
2016年1月23日(土)
◎聖書箇所 【マルコの福音書10章17節】
10:17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
◎ショートメッセージ
《今日から、ある「ひとりの人」について学びたいと思います。この聖書箇所は、3つの共観福音書に記載されています。
と言うことは、マタイもマルコもそしてルカも、この記事を書き記さなければならない「大切な教え」であることが、おのずと分かります。
マルコは、ただ単に「ひとりの人」と書き記しているのですが、
マタイによれば、
『すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。(マタイの福音書19:16および19:22)』となっています。
ここから、その「ひとりの人」は青年であることが分かります。
そしてルカによると、
『またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」(ルカの福音書18:18)』となっています。
ここから、彼は「役人」であったことも分かります。この「役人」とは、単なる役人ではなく、ユダヤ最高議会サンヘドリンの議員であったようです。
この議会に所属する議員は71名で、その中の一人であるとしたら、彼は、青年でありながら、まさしく名誉と地位を手にしていた成功者であります。そして、多くの財産を持っていたと言うことが、後ほど分かります。
若くして名声と地位を得、そして莫大な財産を持つことは、今、現在におきましても多くの若者の願いでもあるでしょう。それは、究極の「勝ち組」であり、人々のあこがれの的であること間違いありません。そしてそれは若者だけではなく、多くの人々の願いと望みであることも、言うまでもありません。
しかし、このすべてを手にした「青年」が、主イエス様の所に走りよって来たのです。
マタイとルカは、そのように書き記してはいませんが、マルコははっきりと「走りよって来た」と。そればかりではなく、主イエス様の御前に「ひざまずいた」と書いているのです。つまり主イエス様を礼拝したのです。
これは、どういうことかと言いますと、この青年は、ひやかしでもなく、また思いつきでもなく、まことに悩み苦しんでいたことを意味します。そればかりではなく、本当に真理を求めていたことが、彼の態度と言葉から滲み出しているのです。
「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
彼の語った言葉から考えて見たいと思います。
まず彼は、「尊い先生」と告白しました。しかし主イエス様は、彼の言葉を受け入れませんでした。これは後ほど学びましょう。
そして次に、「永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」と、言いました。
ここからはっきりと分かることがあります。
それは、この青年である役人は、莫大な富を持ち、成功者であるにもかかわらず、「永遠のいのち」は持っていない、と言うことです。しかも彼は、そのことが十分に分かっています。骨ぼねに染み渡っているのです。それだからこそ、主イエス様の御前にやって来たのです。
「私は何をしたらよいでしょうか。」
彼の質問は的を得ていました。彼には、すべきことがあったのです。
今日ここから学ぶ大切なことは、彼は主イエス様の御前に走りよって来て、ひざまづいたことにあります。
彼は、その魂の中に大いなる苦悩が、問題が、思い煩いがあったようです。その時、主イエス様が彼の前を通り過ぎようとされました。
すかさず彼は、主イエス様の足を引き留める行動に出たのです。主イエス様の御前に出て、ひざまづいたのです。
私たちもこの態度を見習うべきです。主イエス様を引き留めなくてはならないのです。そして、主イエス様に申し出るのです。今、あなたがその心の中に抱いている悩み・苦しみ・思い煩いを主イエス様に申し上げ、聞いていただきましょう。
主イエス様は、必ずお答えになって下さいます。あなたのするべきこと、しなければならないことを必ず教えて下さいます。》