◇◆◇日々のみ言葉
2016年1月26日(火)
◎聖書箇所 【マルコの福音書10章22節】
10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。
◎ショートメッセージ
《主イエス様が道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねました。
「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
すると主イエス様は、彼に答えられました。
「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。」
さらに、モーセの十戒をも引用されました。
「戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」
すると、その役人である青年はこう答えたのです。
「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」
「十戒」を、小さい時から、みな守っていると言うのです。このような答え方から、彼はパリサイ人であったと言っても良いでしょう。
そしてサウロ(後のパウロ)のように、律法に関しては、有無も言えないほど守っていると、言う強い自負があったと思われるのです。
しかし、律法を守ることの出来た人は、主イエス様だけなのです。それ以外の人はすべて失格です。
真理をも知らず、しかも大いなる誤解をしている青年に向かって、彼を悟らさせるために、主イエス様は、彼を見つめられ、その人をいつくしんでこのように言われました。
「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
これこそが、彼の真剣な求めと飢え乾きに対する主イエス様のお答えでした。
そして、これこそが真理だったのです。
ユダヤ最高議会サンヘドリンの議員でもあった青年は、この時、まさしく分かれ道に立たされました。どちらを選ぶのかは、彼の決心と決断にかかっています。
そして、彼がどちらを選んだのかが、今日の聖書箇所となります。
『すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。』
もし、彼が主イエス様のお言葉に聞き従っていたとしたらどうなっていたことでしょうか。
それこそ取税人ザアカイが、悔い改め、すべての人々に謝罪し、盗んだ物を4倍にして返したように、彼が分け与えた貧しい多くの人々に、どれほど感謝されたことでしょう。
そればかりではありません。おそらくニコデモやアリマタヤのヨセフのように、聖書に名前が記され、また主イエス様の忠実な弟子として、永遠に、後世の人々の記憶に残る存在となったに違いないのです。
主イエス様は、「山上の垂訓」においてこのように教えられました。
『「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイの福音書6:24)』
またこのようにも言われました。
『「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイの福音書16:26)』
主イエス様に出会うチャンスはそれほど多くはありません。この役人であった青年は、自分に訪れた「永遠のいのち」を得る機会を、残念ながら逃してしまったのです。
私たちは、自分の寿命を知りません。明日も今日のように必ず訪れると、一体誰が保証してくれるのでしょうか。
特に若い人たちに取っては、かつての私がそうであったように、「死」は全くと言っても良いほど、関係のないことなのです。自分とは無関係の言葉なのです。
しかし、「死」が何時来るのか、訪れるのかは誰も分からないのが真理です。ただ主イエス様だけはご存知であられます。
この後、この役人であった青年がどうなったのかは、聖書には書かれていません。もし悔い改めて主イエス様を信じ、主イエス様の御もとに戻って来たとしたら、その名前は、福音書の中に書き残されているはずです。
前にも書きましたが、この記事はマタイ・マルコ・ルカの3つの共観福音書に記載されています。と言うことは、とても重要な教えであることは、明白です。
誰でも主イエス様を心から信じ、そして口で「イエス様は主です。」と告白する者には、「永遠のいのち」が与えられます。あなたはどちらを選ばれますか。また、あなたはどちらを選ばれましたか。》