◇◆◇日々のみ言葉
2016年1月28日(木)
◎聖書箇所 【マルコの福音書10章26節~27節】
10:26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」
10:27 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
◎ショートメッセージ
《主イエス様は、顔を見回され、弟子たちに言われました。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」
この言葉を聞いた弟子たちは、本当に驚いたのでした。
そして、主イエス様は重ねて、彼らに言われたのです。
「子たちよ。」
この言い方は不思議な言い方です。ギリシャ原語も訳すと「子どもたちよ。」、となります。まるで父なる神様のような言い方です。
「神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
「らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」と言う言葉は、ユダヤの慣用句であって、それは「不可能だ」と言う意味を指します。
驚くことに、「金持ちの人が救われることは不可能だ。」と、主イエス様は言われるのです。
でも、よくよく考えて見ますと、確かに主イエス様の言われた言葉は、今現在でも当てはまるような気がしないでもありません。
なぜならそういう人は、自分が持っている多くの財産を、「平安」の拠り所としているからです。
また、多くのお金を持っていることは、確かに大きな力を持っていることかも知れません。もちろんこの世においてですが。
しかし、主イエス様は、このようなたとえを話されました。
『「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」(ルカの福音書12:16~12:21)』
お金は「悪」ではありません。お金は「中立」したものです。それを良いことのためにも、また悪いことのためにも用いることが出来るのです。そして、それは持っている人が決めることなのです。
主イエス様を尋ねて来た青年は、悲しみながら帰って行きました。彼は、主イエス様のお言葉に従うことが出来ませんでした。彼には、主イエス様よりも、つまり、まことの神様よりも、財産やお金が大切だったと言うわけです。
ある学者は、ルカの福音書に記載されている「愚か者の金持ち」の話は、この青年の後の出来事だと考えています。確かに、それは十分考えられることです。
彼はせっかく「永遠のいのち」を求めて、主イエス様の御もとにひれふし、そしてその答えをいただいたにも関わらず、「永遠のいのち」を得ることが出来なかった、と言うわけです。
弟子たちは言いました。
「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」
主イエスは言われました。
「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
ここに「選びの法則」があるのです。
使徒パウロは、こう理解しています。
『兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。(第一コリント1:26~1:29)』
もちろん例外もあります。金持ちであっても、主イエス様と出会った人はいます。ニコデモやアリマタヤのヨセフなどは、その例にあげることが出来るでしょう。
神様は全地全能のお方であられます。そのお方が誰を選ばれるのかは、そのお方の権限の中にあります。
そして確かに確信出来ることがあります。それは私は選ばれた、と言うことであり、また、あなたも選ばれたと言うことです。》