◇◆◇日々のみ言葉
2016年1月29日(金)
◎聖書箇所 【マルコの福音書10章26節~27節】
10:26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」
10:27 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
◎ショートメッセージ
《今日の学びは、実は昨日と同じ聖書箇所からとなります。今日は、この箇所からもう一つの見解とも言うべきことについて学んで見たいと思います。
サンヘドリンは、自他共に認めるユダヤの国における最高議決機関でありました。その構成は71名からなっています。
日本では、議会は衆議院と参議院の二つに分かれますが、その議員の人数は、両院あわせて数百人になるかと思います。その議員の一人になることは、選挙において、後援者の信用を獲得しなければならず、決してたやすいことではありません。
それと同じように、いやそれ以上に、ユダヤの最高議会の議員になるためには、名門の家系、それ相応の資格、そしてその人物の資質や人々の信用が必要であったことは言うまでもありません。
最高議会議員71名の中の一人であった青年が、主イエス様に、「永遠のいのちを得るためには、私は何をしたら良いのでしょうか。」と尋ねて来ました。
当時のユダヤ社会において、お金があること、地位や名声があることは、神様の祝福があると思われていました。それゆえ若くして、サンヘドリン議員の一人であり、多くの財産を持っていたこの青年は、誰もが神様の祝福を大いに受けている人である、と認められていたに違いありません。
なぜなら、その背景には、申命記による約束があったからです。
申命記28章によれば、
『もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。
あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。
あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される。あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。
主は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。
主は、あなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざを祝福してくださることを定めておられる。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。
あなたが、あなたの神、主の命令を守り、主の道を歩むなら、主はあなたに誓われたとおり、あなたを、ご自身の聖なる民として立ててくださる。
地上のすべての国々の民は、あなたに主の名がつけられているのを見て、あなたを恐れよう。
主が、あなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われたその地で、主は、あなたの身から生まれる者や家畜の産むものや地の産物を、豊かに恵んでくださる。
主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。
私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行なうなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。(申命記28:1~28:13)』
主イエス様は、彼を哀れみ慈しみ、そして愛を持って優しい眼差しで言われました。
「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
すると彼は、この主イエス様のお言葉に顔を曇らせ、悲しみながら立ち去ったのでした。なぜなら、この青年は多くの財産を持っていたからと言うのです。
先ほど書きましたように、多くの財産を持っていることは、神様の祝福と思われていました。族長時代において、最も裕福であった人物は、ヨブ記のヨブであったことは間違いありません。ヨブが、いかに正しい人であったのか、父なる神様さえ認めておられました。
主イエス様に、つき従って来た弟子たちも、同じ考えと思いの中に生きて来たのです。
彼らの本心も、多くの富や財産や持つこと、そして地位や名声を得ることであったと思われます。そして多くの富や地位や名声を得ることこそが、神様の大いなる祝福をいただくことだと信じていたのです。それだからこそ、弟子たちは、主イエス様に従って来たのです。
主イエス様は言われました。
「子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
それを聞いた弟子たちは驚き、
「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」と、言ったのです。つまり、誰も救われない、と思ったのです。なぜなら、彼らの心の中には、この世の富、成功、名声や地位への執着があったことは明らかだからです。
主イエス様は、彼らをじっと見つめられました。彼らの心の思いをご存じであったからです。
「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」
救いの御わざは、神様がなされることなのです。
この青年は、後にパウロを導いたバルナバである、と主張する学者がいます。昨日は、もう一つの見解について学びましたが、今日の見解の方が、さらに優れたものと思われます。
もしバルナバであったとしたら、ルカにおける「使徒の働き」において、彼は持ち物を全部売り払い、そのお金を最初のエルサレム教会に捧げたことは、大いに納得できることかと思われるのです。》