◇◆◇日々のみ言葉
2016年2月2日(火)
◎聖書箇所 【マルコの福音書10章32節】
10:32 さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。
◎ショートメッセージ
《主イエス様は、弟子たちと共に、ユダヤ最大の祭りである「過越の祭り」に、上ろうとしておられました。
公生涯を始められてから、四回目の「過越の祭り」であり、エルサレム訪問となります。ヨハネのバプテスマから始まって、すでに3年半年が経とうとしていた時のことです。。
主イエス様が、エルサレムにおいて、最後にご自身が成すべきことのために、今、都上りを始められたのです。
『イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。』
普段は、主イエス様は、弟子たちに囲まれながら移動されていたかと思われます。あるいは弟子たちが先に前を歩いて、その後に主イエス様が歩いて行かれたのではないのでしょうか。
なぜなら、すでに主イエス様の名声と評判は、最高潮に達していたからです。そればかりではありません。パリサイ人や律法学者たちが抱く、主イエス様に対する怒りと憎しみも最高潮に達していたのです。だからこそ、彼らは主イエス様を十字架に架けることとなるのです。
主イエス様の一行だけではなく、エルサレムへの道、すなわち「都上り」の道には、エルサレム巡礼の人々で溢れてかえっていたかと思います。
すでにユダヤにおいて、また異邦人の国においてでさえも、主イエス様は知られておられました。
それゆえ主イエス様だと分かると、人々は病をいやしていただこう、悪霊から解放していただこうと、しっきりなしに主イエス様の御もとに駆けつけて来たに違いないのです。そのような人々から主イエス様をお守りするため、十二使徒たちが、主イエス様をガードしたと言うわけです。
そのイエス様が、先頭に立って歩いて行く、と言う事態が起こりました。
今までの三回におけるエルサレム訪問とは、明らかに主イエス様の態度が異なっているのは、明白でした。それゆえ弟子たちは、驚き、そして恐れを覚えたのです。
さて、このあと主イエス様は十二使徒を御前に呼び出して、再び受難予告をなされます。この時は三回目となります。
十二使徒たちは、かつて主イエス様が話された、二回にわたる預言を覚えていました。 しかし弟子の誰もがそのこを恐れて、主イエス様に、その意味を尋ねることをしなかったのです。いや出来なかったのです。
一回目の受難予告は、ピリポ・カイザリヤでなされました。
『それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」
彼らは答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。」
するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。
それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。しかも、はっきりとこの事がらを話された。(マルコの福音書8:27~8:32)』
二回目の受難予告は、てんかんの霊に取り憑かれた子供から、その悪霊を追い出し、ガリラヤのカペナウムに、戻る道すがらでされたのです。
『さて、一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。 それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。」と話しておられたからである。
しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。(マルコの福音書9:30~9:32)』
そこで、主イエス様は、再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められたのです。
十二弟子たちは、「政治的メシヤ」を求めていました。また主イエス様が、まさしく「政治的メシヤ」であることを、信じ確信し、何もかも捨てて従って来たのです。
しかし、主イエス様は、その為に来られたのではありません。
主イエス様は、すべての人の罪を背負い、その罪の身代わりとして「十字架」に架かるために、この世に来てくださったのです。
私たちは霊なのです。主イエス様は、本当の私たちである霊を救い出す為に、霊的メシヤとして、この世に来てくださったのです。このお方を信じる者は救われるのです。そして罪を赦され、「永遠のいのち」をいただくことが出来るのです。
この時の弟子たちに取っては、「十字架」は、敗北の印の何物でもなかったのですが、今、生かされいる私たちに取っては、「十字架」は勝利の御旗の何物でもないのです。》