◇◆◇日々のみ言葉
2016年2月4日(木)
◎聖書箇所 【マルコの福音書10章35節】
10:35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」
◎ショートメッセージ
《十二使徒のリーダーは誰であったのでしょうか。
おそらくシモン・ペテロが、その筆頭であったと思われますが、時々、十二使徒の中で誰が一番偉いのか議論が起こっていましたから、もしかしたら本当はシモン・ペテロだけが勝手にリーダーと思い込み、他の使徒たちは、リーダーとしては認めていなかったかも知れないのです。
それだからこそ、今回のようなことが起こったと思われるのです。
マルコは、このように書き記していますが、マタイは平行記事として、少し異なったことを書き記しています。
マタイによれば、
『そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちと一緒にイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。(マタイの福音書20:20)』
まず、ここで分かることがあります。それはゼベタイの妻と主イエス様は、顔見知りの間がらであったと言うことです。
マタイ、マルコ、ヨハネによる福音書を統合して考えて見ますと、ある推測が生まれます。推測とは言いましても、ほぼ間違いないことと思われます。
『そこには、遠くからながめている女たちがたくさんいた。イエスに仕えてガリラヤからついて来た女たちであった。その中に、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。(マタイの福音書27:55~27:56)』
『また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスと一緒にエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。(マルコの福音書15:40 ~15:41)』
『兵士たちはこのようなことをしたが、イエスの十字架のそばには、イエスの母と母の姉妹と、クロパの妻のマリヤとマグダラのマリヤが立っていた。(ヨハネの福音書19:25)』
この三つの福音書の平行記事から、ゼベタイの子らの母の名前はサロメであり、しかも主イエス様の母マリヤとは、姉妹であったことが分かるのです。しかもゼベタイの母サロメは、ガリラヤから主イエス様につき従って仕えていた女たちのひとりでもあったと言うこともです。
そうだとするならば、サロメは、主イエス様が、小さい時から知っていたに違いないのです。どちらが姉か妹かは、聖書には書かれていませんが、ゼベタイの子であったヤコブとヨハネが、かなり若い青年であったことは、疑う余地のないことであり、主イエス様の母が姉、ゼベタイの母サロメが妹であったことは、ほぼ間違いないでしょう。
それならば、当然ヤコブもヨハネも小さい時から、マリヤおばさんと、従兄弟であったイエスお兄さんとは、顔見知りであったことも、ほぼ間違いないことです。
とするならば、主イエス様の叔母として、また従兄弟として、主イエス様の所へ、特別な願いを持ってやって来たことが、十分に説明が付くと言うものなのです。
サロメには、小さい時から良く知っている姉マリヤの子イエスだから、この叔母の願いは聞いてくれるに違いない、と言う思いがあったと思います。
またヤコブとヨハネは、小さい時から可愛がってくれた、従兄弟のイエスお兄さんなら、きっと僕らの願いを聞いてくれるに違いない、と思ったとしても何の不思議もありません。
つまり叔母であるサロメ、そして従兄弟のヤコブとヨハネは、まさしく主イエス様とは、母マリヤを通して血がつながっていることは間違いないことなのです。血がつながっているからこそ、主イエス様の御前に進み出たのです。
シモン・ペテロを始め、残りの十名の使徒たちは、赤の他人なのですから。
私たちが決して忘れてはならないことがあります。
主イエス様は、まことの神様であられます。しかしそれと同時に、私たちと同じ人間でもあられたことをです。これは、私たちの知識や常識では、理解することは不可能です。なぜなら「神が人となられた」ことこそは、奇蹟以外の何物でもないのですし、また信じるしかないのです。
そして人間であったとしたら、当然罪を犯すものなのです。また、悪魔による四十日四十夜の誘惑の時に、罪を犯す可能性があったことも真実であり事実です。
しかし主イエス様が、その生涯において、何一つ罪を犯さなかったことを私たちは知っています。だからこそ、十字架における身代わりの死を成し遂げられたのです。
主イエス様は、ご自分の叔母と従兄弟たちの頼み事を果たして聞き届けられるのでしょうか。それは明日また考えて見ることにしたいと思います。》