• 日々のみ言葉 2016年2月8日(月)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2016年2月8日(月)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書10章41節】

    10:41 十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。

    ◎ショートメッセージ

    《この記事は、マタイの福音書にも平行記事として掲載されています。

    『そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちと一緒にイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。
     イエスが彼女に、「どんな願いですか。」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」
     けれども、イエスは答えて言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。私が飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます。」と言った。
     イエスは言われた。「あなたがたは私の杯を飲みはします。しかし、私の右と左にすわることは、この私の許すことではなく、私の父によってそれに備えられた人々があるのです。」
     このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。(マタイの福音書20:20~20:24)』

     さて、マルコの福音書とマタイの福音書とでは、若干内容が異なることは、すでに学びました。
     マルコでは、ゼベタイの子ヤコブとヨハネだけが、主イエス様の御前に出たこととなっていますが、マタイでは、その母であるサロメが、二人の息子を連れて、イエス様の御もとに出たこととなっています。
     多くの学者は、マルコの福音書がまず最初に書かれ、それをもとにしてマタイが福音書を書いたという見識を持っています。
     そうであるとしましたら、マタイはマルコの福音書に必要不可欠なことを書き足したとも言えるでしょう。
     よって、サロメが二人の息子を伴って、イエス様にお願いに上がったことは、ほぼ間違いないことと思われます。

     そのことを、残りの十人の使徒たちは、どうやって知ったのでしょうか。マルコもマタイも、ほぼ同じ表現を用いて、このように書き記しています。

    『十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。』(マルコ)

    『このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。』(マタイ)

     この後、イエス様はすぐに十二使徒たちを御もとに集められます。そして「サーバントリーダーシップ」について、十二使徒に教えられるのです。
     とするならば、サロメとヤコブとヨハネは、残りの十人の使徒の在席している所で、イエス様に願いを申し出た、と考えるのが妥当だと思います。

     これを聞いた残りの使徒たちは、憤慨したとあります。当たり前です。なぜなら誰もが自分こそは、イエス様の右の座にすわりたいと思っていたからです。
     これまた私の推測しかないのですが、一番腹を立てたのは、シモン・ペテロだと思います。
     なぜなら、イエス様が、ピリポ・カイザリヤにおいて、はっきりとシモンに宣言されたからです。

    『イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、私を誰だと言いますか。」
     シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
     するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいます私の父です。では私もあなたに言います。あなたはペテロです。私はこの岩の上に私の教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。私は、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」(マタイの福音書16:15~16:19)』

     また、ガリラヤ湖の水の上を歩いたのは、イエス様と、そして弟子たちの中では、ペテロただひとりだけなのです。
     この二つの経験からシモン・ペテロが、「十二使徒のリーダーなのだ。」と言う確信が与えられるのに十分ですし、またヤイロの娘のいやしの時も、そしてイエス様が、変貌されたヘルモン山にも、シモン・ペテロはイエス様にお伴しています。

     しかし、シモン・ペテロを脅かす存在がいたのです。しかも二人も。それが、イエス様と血が繋がっている従兄弟のヤコブとヨハネなのです。

     実は、私たちにもこのような経験はないと言えるのでしょうか。誰かが主に用いられたとしたら、ねたみが湧いてこないでしょうか。また誰かが、あなたの職場で大いに用いられていることを見たとしたら、平常心でいられますか。腹立だしくありませんか。
     やはり面白くないのです。これが人間です。そしてこれが罪の性質なのです。

     しかし、主イエス様は、そんなことは十分に承知しておられます。それでも私たちを信頼し、信用し、用いてくださるのです。例え大きな失敗をしたとしても、赦してくださり、そしてまた立ち直る機会を与えて下さるのです。
     私たちは、何事でもあきらめやすいのですが、主イエス様は、決してあきらめません。最後まで、あきらめません。主イエス様は、何時でも手を差し伸べてくださいます。
     私たちのするべきことは、たった一つ。その手をしっかりと掴むことです。》
     

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