◇◆◇日々のみ言葉
2016年2月9日(火)
◎聖書箇所 【マルコの福音書10章42節~44節】
10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。
10:44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」
◎ショートメッセージ
《ゼベタイの妻サロメとその息子のヤコブとヨハネが、主イエス様の所に行きました。そして「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」とお願いしたのです。
それを、近くで聞いていた残りの十人の使徒たちが、ヤコブとヨハネのことで腹を立てたのです。
なぜなら、誰もが主イエス様の右の座にすわりたかったからです。また自分こそが、十二使徒の中においてリーダーに相応しいと思っていたからでした。
特にシモン・ペテロが憤慨したことは、昨日学びました。
そこでです。主イエス様は、十二使徒を御そば近くに呼び寄せられました。そしてまず、この世における支配者、権力者の話をされたのです。
「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。」
イエス様の言われたことは、まさしく今現在においても当てはまることかと思います。 しかし聖書は、こうも書いています。
『人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。
あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。
しもべたちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。(第一ペテロ2:13~2:19)』
これは、なかなか難しい命令だと思われます。しかし私たちは、十字架にまで従われたお方を知っています。それゆえペテロは、「主のゆえに従いなさい。」と勧めるのです。
次に主イエス様は、どのようにしたら人々の上に立てるのか、について奥義を教えられたのです。
「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」
これこそが、真の指導者であり、真のリーダーたる者だと言われるのです。近年、主イエス様のこの言われた言葉から、「サーバント・リーダーシップ」と言う言葉が誕生しました。そしてアメリカにおいて様々な企業が、この「サーバント・リーダーシップ」を取り入れ、成功していると聞きます。
とすれば、今から二千年ほど前に、まさにイエス様の教えられたことは、真理そのものに違いありません。
主イエス様は、「偉くなりたい」または「人の先に立ちたいと思う」ことを、決して否定はされておりません。むしろ肯定しているとも思えるのです。
だとしたら、私たちも「偉くなること」そして「人の先に立つこと」すなわち指導者、あるいは支配者(今風に言えばCEO)になることを求めても良いことになります。
しかし私たちは、この世の者ではありません。この世は、仮庵なのです。仮りの住まいなのです。それだからこそ、この世の指導者・支配者のようにではなく、主イエス様に従う者としての指導者、あるいはトップに立つ者とならなければならないのです。
「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」
しかし、この勧め、あるいは主のご命令を実行することは、かなり難しいことかと思われます。
これは、私たちの自我では、我力では出来ないことです。この為には、何としても聖霊様の助けが必要なのです。上からの助けが必要です。
自分で、主イエス様のようになりたいと、努力したとしても、我力では、結局燃え尽きてしまうことになりますし、続かないのです。
聖霊様との親しい交わりの中で、聖霊様の力により頼んで、聖霊様に満たされて、聖霊様と共に、それを目指すのです。そして、それを目指そうとする者には、必ず聖霊様は、力と勇気と知恵とを、与えてくださるのに違いありません。
『私は父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。(ヨハネの福音書14:16~14:17)』
最後に、十二使徒たちは、この時点においては、主イエス様の言われたことを、全然理解出来ませんでした。それだからこそ、最後の晩餐の直前において、主イエス様は彼らの足を洗われたのです。その時、彼らの霊的目が開かれたと、私は思うのです。》