◇◆◇日々のみ言葉
2016年2月11日(木)
◎聖書箇所 【マルコの福音書10章46節~48節】
10:46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
10:47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。
10:48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
◎ショートメッセージ
《今日からは、いよいよ主イエス様が、公生涯における最後の「過越の祭り」に巡礼するために、エルサレムに上られる場面となります。
この記事は、マタイ、マルコ、ルカによる三つの共観福音書に掲載されています。
マタイによりますと、
『彼らがエリコを出て行くと、大ぜいの群衆がイエスについて行った。すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」
そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」と叫び立てた。(マタイの福音書20:29~20:31)』と、書かれています。
そしてルカによりますと、
『イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。
ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。
彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。(ルカの福音書18:35~18:39)』と、書かれてあります。
三つの福音書とも、場所はエリコとなっていますが、その状況が少し異なるのです。マルコとマタイは、主イエス様の一行がエリコを出て行かれた時となっていますが、ルカは、エリコに近づかれた頃となっています。
また、マタイは道ばたに座っていた盲人は二人いたことを書き記しています。マルコとルカは、盲人はひとりで、しかもマルコは、はっきりと彼の名前がバルテマイであることを書き記しています。
尾山令仁先生は、マルコが、この人物を良く知っていたから、名前を書き記したと教えられました。
さて、場面についてですが、状況からしてマルコとマタイが、書き記したことが正しいと言えるでしょう。おそらくエルサレム側のエリコの門の所に、バルテマイともうひとりの盲人が座っていたと思われます。
そこへ、おびただしい群衆の足音が聞こえて来たのです。
そればかりではありません。人々の声が、特に誰かをほめたたえている声が聞こえて来たのです。
「いったい、何事だろうか。」と、バルテマイは思って、自分の前を通り過ぎようとした人に聞いたのです。
「これはいったい何ごとですか。」
すると、その人は、「ナザレのイエスがお通りになられるのだ。」と、彼に教えらたのです。
それを聞いたバルテマイは、突然叫び出しました。
「主よ。私をあわれんでください。ダビデの子よ。主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」
彼は、目が見えませんから、主イエス様の御前に向かって走って行くことは出来ません。しかし彼は叫び続けたのです。何度も。何度も。
人々は彼を黙らせようとしましたが、彼は、叱りつけられれば、なおいっそう叫び立てたのです。
ここで、大切なことが分ります。バルテマイは、主イエス様がどのようなお方であるのか、知っていたと言うことです。そして信じていたのです。イエス様こそメシヤであることを。それが「ダビデの子よ」と言う、彼の言葉から分ります。
そしてもう一つ大切なことは、彼はあきらめなかったのです。彼は、人々からののしられようとも叫び続けたのです。
これこそが「祈り」です。これこそが、信仰に基づいた行動なのです。
バルテマイの叫ぶ声を聞いたイエス様は、その足を止められることになります。
私たちも、バルテマイのように、主イエス様の足を止めなくてはなりません。主イエス様を引き留めるぐらい、真剣に叫び続けようではありませんか。
「ダビデの子よ。主よ。私をあわれんでください。」
「ダビデの子よ。主よ。私たちを、日本をあわれんでください。ダビデの子よ。」
何ごとにおいても、決してあきらめてはなりません。私たちの叫ぶ声は、祈りは、主イエス様の耳もとに届いています。》