◇◆◇日々のみ言葉
2016年2月13日(土)
◎聖書箇所 【マルコの福音書10章51節~52節】
10:51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
10:52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。
◎ショートメッセージ
《一昨日そして昨日に続き、盲人バルテマイのいやしの場面からの学びとなります。
「ダビデの子のイエス様。私をあわれんでください。ダビデの子よ。私をあわれんでください。」
叫び声を耳にしたイエス様は、立ち止まりました。そして弟子たちに言われました。
「あの人を呼んで来なさい。」
そこで、数人の弟子がしぶしぶその盲人の所に歩いて行って、手を貸したのです。
「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」
すると、その盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐに立ち上がって、弟子たちに手を引かれながら、イエス様の御前に来たのです。
イエス様は彼に言われました。
「わたしに何をしてほしいのか。」
イエス様は、私たちと同じ人間であられましたが、創造主なる神様です。もちろんバルテマイが何をしてほしいのか、すべてをご存知であられました。なぜならイエス様は、私たちと違って、人の心を読むことが出来るのです。
バルテマイは、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫びました。
私たちも、お祈りする時、あるいは神様にお願いする時、もしかしたら、このようにしていないでしょうか。
「神様。私を哀れんでください。」
「神様。私を助けてください。」
「神様。私を祝福してください。」
そうです。これでは漠然としていて、いったい何をして欲しいのか、神様は分からないのです。
いや、神様はすべてをご存知です。何をしてほしいのが分からないのは、その人自身なのです。私なのです。
それゆえ、イエス様は、「わたしに何をしてほしいのか。」と聞かれるのです。
そうです。具体的に、何をしてほしいのか、どうしてほしいのかを、あなたの口で、私の口で言う必要があるのです。
「先生。目が見えるようになることです。」
これがバルテマイの最大の願いでした。この問題こそが、この障害こそが、彼にこのような人生を送らさせていたのですから。
するとイエス様は、彼に言われました。
「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」
不思議なことです。この時イエス様は、バルテマイに手を置いてお祈りしたわけでもなく、また「目が見えるようになれ」と命じられたのでもなく、ただこのように言われたのです。「行きなさい。」
すると彼は、すぐに見えるようになったと書かれています。そしてイエス様について行きました。そうです。弟子となったのです。
マルコは、かつて盲人であったバルテマイの名前を福音書に書き記しました。これは、マルコが彼を良く知っていたと言うことです。またその名を残すため、あえて書き記したと思われるのです。つまりバルテマイは、最後まで主イエス様の弟子として、信仰を全うしたと言うことです。
私は、パウロが言う、「よみがえられたイエス様が、そのお姿を現わされた五百人」の中に存在していたとも思うのです。彼は、まさしくその目で見たのです。
もしかしたらペンテコステの時に、マルコの家の二階において、心を合わせて祈っていた、120名の中の一人であったかも知れないのです。
そうだとしたら、何と素晴らしいことではありませんか。
「わたしに何をしてほしいのか。」
「先生。目が見えるようになることです。」
出来る限り、具体的なことを神様に申し上げることをお勧めします。その答えをいただいた時、またその通りになった時こそ、神様が、主イエス様が、あなたの祈りに、あなたの願いに答えてくださったこと、叶えてくださったことを、あなた自身が知ることになるから。
そしてその時こそが、神様があなたに出会ったくださったのです。あなたに触れてくださったのです。
『イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも同じです。(ヘブル人への手紙13:8)』》