◇◆◇日々のみ言葉
2016年2月14日(日)
◎聖書箇所 【マルコの福音書11章1節~2節】
11:1 さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、
11:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。」
◎ショートメッセージ
《いよいよイエス様と弟子たちの一行は、公生涯における四度目の「過越の祭り」に巡礼するため、エルサレムに入場しようとしています。
ベテパゲとは、「未熟のいちじくの家」という意味の、エルサレムの東方に位置したオリーブ山の南にあった町のことです。エリコからベタニヤを経てエルサレムに至る街道沿いにありました。
そしてベタニヤとは、「悩みあるいは貧困の家」という意味で、エルサレムの南東約3キロに位置し、オリーブ山の東麓にあった村で、イエス様はこの村をよく訪ねました。 なぜならその村には、イエス様が蘇らせたラザロとその姉妹マルタとマリヤが住んでいたからです。
特にその生涯の最後の週には、ここからエルサレムへ通われたことは、間違いありません。最後の一週間に、イエス様は、ご自身が愛する兄弟姉妹と過ごされたことは、特別な意味を持っているとも言えます。
バチカン市国の国立図書館には、何と貴重な当時の公的記録文書が残されているのです。
その文書によりますと、イエス様とラザロは、まだイエス様が二十歳台の頃からの友人であり、そしてマルタとマリヤも、イエス様と親しくしていた(清い関係であることは言うまでもありません)との記録が残されています。もちろん、まだ公生涯以前のことであり、その時には、一介のナザレの大工で、バルヨセ(ヨセフの子)・イエスと呼ばれた時のことです。
聖書には書かれていない、イエス様の三十年間には、いったいどのような日常があったことでしょう。イエス様にも青春時代があったかと思うと、私が本当に親しみがわくのです。
少年時代のイエス様の事については、ルカだけが書き記してます。
『さて、イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行った。
イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習に従って都へ上り、祭りの期間を過ごしてから、帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかなかった。
イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを行った。それから、親族や知人の中を捜し回ったが、見つからなかったので、イエスを捜しながら、エルサレムまで引き返した。
そしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。
両親は彼を見て驚き、母は言った。「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」
するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」
しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。
それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。
イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。(ルカの福音書2:41~2:52)』
本当は、もっともっと、公生涯前のイエス様のことについて知りたいものです。
ルカは、この章の最後に結論としてこう述べています。
『イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。』と。
さて、本題に戻りましょう。
「向こうの村へ行きなさい。」
イエス様は、二人の弟子を、ベタニヤではなく、ペテパゲの町に遣わしました。
この二人は誰であったのでしょうか。おそらくペテロとヨハネであった可能性が高いと思われるのです。
なぜなら、最後の晩餐の時に、イエス様は、この二人を遣わされているからです。ロバの子を連れて来ると言う使いも、そして最後の晩餐をする場所を準備しに行くと言う使いも、非常に重要な使いであり、それぞれが深い意味を持っていると言えるからです。
『さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。イエスは、こう言ってペテロとヨハネを遣わされた。「わたしたちの過越の食事ができるように、準備をしに行きなさい。」(ルカの福音書22:7~22:8)』
イエス様は、二人の弟子に言われました。
「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。」
ここで、イエス様は、三つの預言をされています。
「二人の弟子が村にはいるとすぐに気づく」
「ろばの子がつないである」
「そのろばの子はまだ誰も乗ったことのないろばである」
そして明日学ぶことになるのですが、実は決定的なしるしがあるのです。このように、すべてが偶然ではなく、必然的に用意されていると言うことが分かります。
そうだとしたら、私たちの人生に、今起こっていることは、偶然ではなく必然であると言えないでしょうか。この試練も。この悲しみも。この苦しみも。このにっちもさっちも行かない袋小路でさえも。行き止まりさえも。
なぜ。
その答えは、ただ一つです。主イエス様の栄光が、やがて現わされ、私たちが感謝の賛美を、涙と共に心から捧げ、主の御名がほめたたえられる為なのです。マイナスは必ずプラスに変わります!》