• 日々のみ言葉 2016年2月15日(月)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2016年2月15日(月)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書11章3節~4節】
    11:3 「もし、『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」
    11:4 そこで、出かけて見ると、表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、それをほどいた。

    ◎ショートメッセージ

    《『さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。」(マルコの福音書11:1~11:2)』

     今日学ぶ箇所は、昨日の続きになります。主イエス様の言われた後半を学びましょう。

     昨日、マルコの福音書11:1~11:2から、イエス様が二人の弟子たちをベテパゲの町に、ロバの子を用立てする使いとして遣わす時に、三つの預言について学びました。

    「二人の弟子が村にはいるとすぐに気づく」
    「ろばの子がつないである」
    「そのろばの子はまだ誰も乗ったことのないろばである」

     そして今日は、決定的なしるしについて考えて見ましょう。

     それは、弟子たちがつないであるロバの子のひもをほどこうとすると、「ある人が『なぜそんなことをするのか。』と言う。」、と言われるのです。

     当然です。そのロバの子は、誰かの所有物であることは言うまでもありません。
     また道行く人や、その場に居合わせた人々には、突然町の外からやって来て、ロバの子のひもをほどこうとする弟子たちの姿は、盗人以外の何物でもないはずです。

     道行く人や、その場に居合わせた人々は、不審に思うのは当然のことですが、一番憤慨するのは、その持ち主であるはずです。

     イエス様は、「もし『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら。」と言われましたが、ルカにおける平行記事では、実際にそのように言う人は、「持ち主」であることを、はっきりと書き記しています。

    『オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、言われた。「向こうの村に行きなさい。そこにはいると、まだだれも乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。もし、『なぜ、ほどくのか。』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」
     使いに出されたふたりが行って見ると、イエスが話されたとおりであった。彼らがろばの子をほどいていると、その持ち主が、「なぜ、このろばの子をほどくのか。」と彼らに言った。(ルカの福音書19:29~19:33)』

     これは、どのようなことなのでしょうか。
    つまりイエス様の言われた預言は、弟子たちに取っても、そしてその持ち主に取っても、決定的なしるしであったと言うことなのです。

     まずロバの子の持ち主ですが、その人がイエス様の弟子であったのかどうかは、聖書には書かれていませんが、神様の選ばれた人であったことは間違いないことだと思われます。
     その時その場所に、まさに絶妙なタイミングに、そこに誰も乗ったことのないロバの子と、その母ロバを連れて、ベテパゲの町の入り口の家に巡り合わせていたと言うことは、単なる偶然でしょうか。

     神様は、その持ち主にすでにそのようにするよう導いておられた、すでに指示を出されていた、と考える方が納得出来るではありませんか。

     そして、そのしるしとして、その持ち主が、「なぜそんなことをするのか、なぜこのロバの子をほどくのか」と聞くと、『「主がお入用なのです」』と言う答えが返って来ることこそが、持ち主に取っては決定的なしるしなのです。

     また二人の弟子たちに取っても、『なぜそんなことをするのか。』と言う人が居合わせること、そして『主がお入用なのです。』と伝えれば、渡してくれることこそが、決定的なしるしであったと言うわけです。

     では、なぜ主イエス様は、二人の弟子に「ロバの子をほどいて連れて来なさい」と言われたのでしょうか。なぜイエス様は、「ロバの子」を用立てするよう命じられたのでしょうか。

     それは、旧約聖書にこのように預言されているからです。

    『シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。(ゼカリヤ書9:9)』

     この預言は、何と主イエス様がお生まれになる五百年以上も前に預言されたものです。すなわちエルサレムに第二神殿を建築する頃の預言なのです。

     主イエス様の弟子たちには、これらのことが分からなかったと、ヨハネは書き記しています。もちろん、その時のヨハネでさえも分からなかったことは言うまでもないことです。

    『イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」初め、弟子たちにはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行なったことを、彼らは思い出した。(ヨハネの福音書12:14~12:16)』

     すべては偶然ではありません。それは、まさしく神様によってご計画されていたことなのです。私たちの回りに起こることは偶然ではなく、必然なのです。しかしその必然的な状況でさえも、私たちには変えることが出来るのです。
     それは「祈り」です。「執り成しの祈り」です。「祈り」こそが、私たちクリスチャンに与えられた「聖書のみ言葉」と共に、大きな武器なのです。それだからこそ、悪魔は私たちに祈らせないように仕向けるのです。》

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