◇◆◇日々のみ言葉
2016年2月16日(火)
◎聖書箇所 【マルコの福音書11章5節~6節】
11:5 すると、そこに立っていた何人かが言った。「ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。」
11:6 弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。
◎ショートメッセージ
《『さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだ誰も乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。もし、『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」
そこで、出かけて見ると、表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、それをほどいた。(マルコの福音書11:1~11:4)』
マルコは、そこに立っていた数人が、「ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。」と聞いてきたと書き記しています。
しかしルカは、同じ箇所として、数人ではなく、「持ち主」であったことを、はっきりと書き記しています。
『オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、言われた。「向こうの村に行きなさい。そこにはいると、まだ誰も乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。もし、『なぜ、ほどくのか。』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」
使いに出された二人が行って見ると、イエスが話されたとおりであった。彼らがろばの子をほどいていると、その持ち主が、「なぜ、このろばの子をほどくのか。」と彼らに言った。(ルカの福音書19:29~19:33)』
まず、これはどういうことでしょうか。
ろばの子がつながれている場所に、その持ち主がいて、おそらく数人の人と話していたと考えるのが普通です。
すると、そこへ何と二人の男が、突然やって来て、その人たちの見ている前で、ろばの子をほどき始めたと言うわけです。
普通、驚いて最初に声を発するのは、やはり「持ち主」ではないでしょうか。その持ち主と共に、側に居合わせた人々も、当然驚いて、そのように言うはずです。
「ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。」
これは日本語の訳に問題があって、もし私たちがその場に居合わせたとしましたら、「どうするのですか」などと、優しく、しかも丁寧に言うわけはないのです。
強い口調で「どうするのか」と、大きい声で諫めることが普通です。
「弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。」
主イエス様は、ご自分が乗るべきろばの子を知っておられました。そのろばの子は誰も乗せたことがないのです。しかも、絶妙なタイミングの時に、そこに存在していたのです。そのろばの子は、生まれた時から、まさにこの時に、イエス様を乗せてエルサレムに入場することが定められていたのです。このろばの子は選ばれていたのです。
実際、当時のユダヤ人が乗った乗り物は、馬ではなく、普通はろばでした。当然、様々な場所にろばも、また子ろばもいたはずです。その時、ベテパゲの町にいた子ろばは、その一頭だけではなかったはずです。
神様が選ばれた子ろばに弟子たちを導く為に、イエス様は三つの預言を与えられ、そして決定的なしるしをも与えられたと言うわけです。
「主がお入り用なのです。」
この言葉を言えば、その持ち主はろばの子を連れて行くことを許してくれるのです。
「弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。」
そして弟子たちは、ろばの子を引いてイエス様の所に戻って行きます。この時、二人の弟子はどうしたでしょうか。例えばペテロがろばの子に乗って、ヨハネがそれを引いてくるとか。
いいえ違うのです。このろばの子が乗せるのは、イエス様が最初です。もし弟子の一人が少しの時間でも乗ったとしたら、預言の成就のさまたげになってしまいます。
マタイは、同じ箇所として、このように書き記しています。
『それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子を二人使いに出して、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、私の所に連れて来なさい。もし誰かが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」
これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。
「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたの所にお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」
そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。(マタイの福音書21:1~21:7)』
そうです。母ろばが一緒にいたのです。ペテロが母ろばを、ヨハネがろばの子を引いて来たと言うわけです。主の成せることに、手抜かりはないのです。神の成せることは完璧なのです。このお方は、信頼するに十分なお方であられます。私たちは、このお方を信じ、信頼し、そして共に歩んで行くのです。》