• 日々のみ言葉 2016年2月18日(木)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2016年2月18日(木)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書11章9節~10節】

    11:9 そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。
    11:10 祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」

    ◎ショートメッセージ

    《『さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、言われた。
    「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだ誰も乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。もし、『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」
     そこで、出かけて見ると、表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、それをほどいた。すると、そこに立っていた何人かが言った。「ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。」
     弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。
     すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。(マルコの福音書11:1~11:8)』

     昨日に引き続き、「ろばの子」シリーズの学びです。

     日本に「アシュラム運動」を普及させた榎本保朗先生は、ご自身のことを「チイロバ」と呼んでいました。これは、この箇所からつけられたあだ名だそうです。
    「チイロバ」とは、小さなろばのことで、非力であっても、イエス様を運ぶ者でありたい、という願いから、ご自分のことを「チイロバ牧師」と呼んでおられたそうです。

     さて、ろばの子に乗られたイエス様と弟子たちの一行は、エルサレムまでの道程を歩んで行きました。
     その時、大勢の人々が、イエス様をほめたたえます。手には「シュロの葉」を持って、
    「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」と叫ぶのです。

     「ホサナ」とは、「今、救ってください」という意味です。

     元来はアラム語のホーシャナーを、ヘブル語で音訳したホーシーアー・ナーで、それをギリシャ語で音訳したのが「ホサナ」と言うことです。本来は「ああ、主よ。どうぞ救ってください」と言う意味の言葉ですが、その当時のユダヤでは、その本来の意味は失われて、ただ単に、賛美に伴う感嘆詞のように用いられるようになっていたようです。
     日本語では、「主に栄光あれ」と訳した方が、意味が通じるかも知れません。

     実は、この時の様子が、何と詩篇118篇に預言されているのです。

    『ああ、主よ。どうぞ救ってください。ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。主は神であられ、私たちに光を与えられた。枝をもって、祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで。(詩篇118:25~118:27)』

     最初の言葉が「ホサナ」です。そして何と群衆は、「ホサナ」に続いて、詩篇に書かれた言葉を叫んでいるのです。

    「主の御名によって来る人に、祝福があるように。」

     もちろんこの時の群衆は、この言葉が詩篇に書かれた預言とは知りもしません。なぜなら、当時のユダヤでは、誰もが自由に聖書を開いたり読んだりすることは出来なかったからです。
     そういう意味においては、現在の私たちは幸せですね。私たちは、ひとり一冊づつ聖書を持ち、何時でもどこでも読むことが出来るのですから。

     ところが、パリサイ人や律法学者たちは、詩篇118篇のこの預言を知っていました。

     ルカはこのように書き記しています。

    『イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」
     するとパリサイ人のうちのある者たちが、群衆の中から、イエスに向かって、「先生。お弟子たちをしかってください。」と言った。
     イエスは答えて言われた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」(ルカの福音書19:37~19:40)』

     なぜ、パリサイ人たちはこのように言ったのでしょうか。それは、彼らが詩篇118篇の預言が、まさしく「メシヤ」であるキリストが、来られる時に起こることを知っていたからです。
     しかし、彼らはイエス様が、そのお方であることを信じようともせず、今こそ預言が成就していることさえも、悟ることも出来ず、むしろイエス様の弟子たちは、神を冒涜していると考えたからこそ、「彼らをしかってください」と言ったのです。

     この時、パリサイ人たちの目の前で、
    『枝をもって、祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで。』と言う預言も成就していました。群衆は、「シュロの木」の枝を手にかかえ、そしてエルサレムの神殿まで、祭りの行列を組んでいたのです。

     神様は、ご自身が本当に生きておられること、また存在しておられることを、お示しになられます。しかし私たちの「霊の目」が曇っていたりしますと、その時こそが「神の訪れ」であることを悟ることが出来ず、また知ることも出来ないのです。パリサイ人たちのように。
     私たちは、何時でも目を覚ましていなければなりません。霊的な目を曇らせてはなりません。眠っていてはならないのです。
     では、どうしたら目を覚まし、また目の曇りを取り除くことが出来るのでしょうか。

     それは、「み言葉」によってです。聖書を読むことによってです。それも毎日。それも毎朝、一番にです。これが「デボーション」です。私たちは霊的存在です。その霊も食物がないと飢えて弱ってしまいます。その食物こそ「み言葉」なのです。》

Comments are closed.