◇◆◇日々のみ言葉
2016年2月20日(土)
◎聖書箇所 【マルコの福音書11章12節~14節】
11:12 翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
11:13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。
11:14 イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。
◎ショートメッセージ
《翌日とは受難週の二日目にあたります。
さて、主イエス様と弟子たちがベタニヤのマルタとマリヤ、そして弟ラザロの家を出たとき、主イエス様は空腹を覚えられたとあります。
ベタニヤのマルタはその性格上、イエス様をもてなすことは得意中の得意でありましたから、当然朝の食卓も、精一杯準備したことは間違いないのです。
そうだとしたら、なぜ主イエス様は空腹を覚えられたのでしょうか。主イエス様は大食漢であったのでしょうか。
いいえ。違います。考えられることはただ一つです。それは朝の食卓につかなかったと言うことです。
マルコは、一章にこのように書き記しています。
『さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコの福音書1:35)』
特にこの時は、主イエス様に取って最後の週すなわち受難週にあたります。それゆえイエス様も父なる神様と交わる時間が多く必要であったことは想像に難くありません。
弟子たちが朝の食卓に着いている時に、寂しい所から戻って来られ、もしかしたら、薄いぶどう酒を飲んだだけで、弟子たちと再びエルサレムに向かったとも考えられるのです。
それだからこそ、しばらく行かれると、イエス様は空腹を覚えられたのです。
すると道すがら、葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えました。イエス様は、それに何かありはしないかと、おそらくひとりで見に行かれたのです。
イエス様が、そのいちじくの木の側に来られますと、葉のほかは何もないのに気づかれたのです。なぜならいちじくのなる季節ではなかったからです。
「いちじくのなる季節ではなかった」にもかかわらず、ではなぜイエス様は、そのいちじくの木に行かれたのでしょうか。
それは「葉が茂っていた」からなのです。
いちじくの木について、少し知っておく必要があります。いちじくの木は年二回ほど実がなります。いちじくの木は、葉よりも先に花が咲きます。そして実を結び始めるのです。日当たりの良い道ばたで、もう葉を茂らせているのであれば、実を結び始めていると、イエス様が思われたとしても、何の不思議ではありません。そのように季節外れのいちじくの木も、ユダヤでは存在していたからです。
しかし、このいちじくの木は、葉ばかり茂らせて実を結んでいなかったのです。マルコはあえて「いちじくのなる季節ではなかったからである」とことわっていますが、日当たりの良い場所にあって、しかも葉を勢いよく茂らせていたこのいちじくの木には、実がなっていても良かったのです。実がなっていなかったことが問題なのです。
イエス様は、その木に向かって言われました。
「今後、いつまでも、誰もおまえの実を食べることのないように。」
この箇所を多くの人は誤解しています。主イエス様は空腹だったので、いちじくの実を求めて木に近づいて行ったところ、いちじくの実がないのを知って怒られ、腹立ちまぎれに呪って枯らさせてしまったと、言うように理解しているのです。
実はこれは比喩であり、しるしなのです。
エルサレム神殿で行なわれている宗教儀式を表わしています。つまり形式的な礼拝ばかり捧げているユダヤ教を、そしてそれを行なっている祭司たちを「実のみのらない葉ばかりのいちじくの木」として、例えておられるのです。
実のみのらない宗教的儀式とは、ただその行事だけに目がとまり、中身が、すなわち神様への本物の信仰が、心がないことを指し示すのです。
もし、本当にエルサレム第三神殿が、まことに神の宮であり、創造主なる神様に向かって心から礼拝が捧げられ、み言葉が語られていたとしたら、そこにイスラエルの神様への信仰があったとしたら、どうしてすべての人の主であられるイエス様を、異邦人であったローマ総督ポンテオ・ピラトに渡して、十字架につけるようなことが出来るのでしょうか。
それを、イエス様は呪われたのです。
「今後、いつまでも、誰もおまえの実を食べることのないように。」
これは、この神殿にて行なわれている単なる儀式しかない礼拝を、心伴わない、信仰のない礼拝が、やがて終わることを、イエス様は預言され宣言されているのです。
この預言は紀元七十年に成就します。その時エルサレムは崩壊し、神殿に積まれていた石はすべて崩され、そこにいた祭司長や祭司たちもすべて、やがてローマ皇帝となるティトスによって滅ぼされることになります。
私たちが信じ信頼している主イエス様は、まことの神様であられます。このお方は今も生きておられます。神様が存在されることは真実であり事実です。神であられる主は人の心を見られます。私たちがどんなに隠そうとしたとしても、主はすべてをご存じであり、すべてを知っておられます。
私たちが、毎主日に、共に集まって礼拝を捧げる時に、単に儀式に参加しているだけとしたら、この当時の神殿礼拝と同じになってしまいます。私たちは全身全霊を持って、主イエス様の十字架と復活の御わざを心から誉め称え、礼拝するのです。》