• 日々のみ言葉 2016年2月22日(月)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2016年2月22日(月)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書11章18節~19節】

    11:18 祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。
    11:19 夕方になると、イエスとその弟子たちは、いつも都から外に出た。

    ◎ショートメッセージ

    《主イエス様は、エルサレムの神殿に「ろばの子」に乗って、「メシヤ」として凱旋されると、「宮清め」をされたのです。マルコは、次の日の出来事として、書き記していますが、マタイとルカは、その日の出来事として書き記しています。

     マルコによれば、
    『翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
     葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。
     イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。
     それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。
     そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」(マルコの福音書11:12~11:17)』となっています。

     そしてルカによる平行記事によると、

    『宮にはいられたイエスは、商売人たちを追い出し始め、こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」
     イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長、律法学者、民のおもだった者たちは、イエスを殺そうとねらっていたが、どうしてよいかわからなかった。民衆がみな、熱心にイエスの話に耳を傾けていたからである。(ルカの福音書19:45~19:48)』となっています。

     主イエス様が、エルサレムに入場された時から、祭司長やパリサイ人と律法学者たちは、すでに厳戒態勢を敷いていました。また今年の「過越の祭り」にも、やっかいな者がやって来たと。
     そして、三年前と同じように、イエス様は「宮清め」をされたのです。

     イエス様は、祭司長や律法学者の見ている中、両替人や商売人に向かって「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」と、言われたのです。

     その言葉を聞いていた祭司長、律法学者たちは、どのようにしてイエス様を殺そうかと相談し始めました。ルカは、それに民のおもだった者、すなわち長老たちも、イエス様を殺そうとねらっていたと書いています。
     それは、まさしくユダヤ人の代表者たちが、最高責任者が、イエス様を殺すことを考えていたということになります。

     それからイエス様は、毎日、宮に入って、民衆に教えられました。民衆は皆、熱心にイエス様の話に耳を傾け、そしてイエス様の新しい教えに驚嘆していました。

     しかし、悪魔の時は、刻一刻と近づいていました。
     数日後には、イエス様は十字架に架けられるのです。
     この時には、主イエス様の教えを熱心に聞き入り、また驚きの声を上げていた民衆は、数日後には、イエス様に対して「十字架につけろ。十字架につけろ。」と、憎しみを持ってののしることになるのです。

     主イエス様が、ろばの子に乗ってエルサレムに入場された時には、
    「ダビデの子よ。ホサナ。主の御名によって来られる方に祝福あれ。」と、賛美と賞賛を持って、熱狂し出迎えた民衆の心は、数日後には全く反対になってしまうのです。

     これが人間です。これが人間の姿なのです。人間の本性なのです。
     民衆がそうなってしまった背景には、また祭司長や律法学者たちが、イエス様を殺そうとした背後には、悪魔の存在が関係していることは疑いようのない事実です。

     私たちは流されやすいのです。この時の民衆のように。それだからこそ、絶対に流されることのない真理、確信に留まらなければならないのです。それが「み言葉」です。それが聖書なのです。
     私たちは、この世という大海原を船に乗って渡っているのです。目的地は、もちろん御国です。私たちは、もはやこの世の者ではありません。主イエス様を信じ、このお方にすべてを捧げ、またこのお方の十字架の御わざを知った者は、救われた者は、もはやこの世の流れに流されてはならないのです。目的地に着くには「コンパス」が必要です。それが聖書です。主イエス様の教えであり、語られた「み言葉」です。

     この時、イエス様は、自分に残された時間の短いことを知っておられました。そしてその限られた時間において、多くのことを民衆に、そして共にいた弟子たちに教えておられたのです。

     そして夕方になると、イエス様とその弟子たちは、いつもエルサレムから外に出て、ベタニヤに行かれました。そこにはマルタとマリヤ、そしてその弟ラザロの家があったからです。
     受難週の一週間は、ここからエルサレムに通われます。面白いことに、この場所が、イエス様を殺そうとしていた祭司長や律法学者たちには、霊的に隠されていたようなのです。彼らはイエス様の居所をつきとめることが出来なかったのです。
     イエス様が十字架に架けられ死んで葬られ、まさに暗黒の三日間も、弟子たちはそこに居合わせたのです。
     その場所が守られ、また隠されていたことは、まさに神様の恵みであり、主イエス様の愛の何物でもありません。それほどイエス様は、弟子たちを、そしてマルタとマリヤとラザロを愛しておられたのです。それと同じくらい、私たちも愛されているのです。》

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