• 日々のみ言葉 2016年2月23日(火)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2016年2月23日(火)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書11章20節~21節】

    11:20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。
    11:21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」

    ◎ショートメッセージ

    《『翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。
     イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。(マルコの福音書11:12~11:14)』

     主イエス様が、エルサレムに入場された「しゅろの祝日」と言われた次の日のことです。それが「翌日」と言うことです。受難週の二日目の出来事になります。
     ベタニヤからエルサレムの神殿に、イエス様が弟子たちを連れて行こうとした時のことです。
     道ばたに葉の茂ったいちじくの木がありました。主イエス様は、実が有りはしないかと、その木に近寄って行かれたのです。
     しかし、いちじくの実のなる季節ではなかったのですから、その木にはいちじくの実はなっていませんでした。
     昨日学びましたように、日当たりが良く水も豊富な環境の良い土地に育っている「いちじくの木」は、たとえ実のなる季節ではないとしても、実がなっていてもおかしくないのです。ユダヤでは、良くあることだったようです。
     例えば、日本でも、まだその時期ではないのに、季節外れに満開となってしまった「さくらの木」が有るように。

     主イエス様は、その「いちじくの木」に言われました。
    「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」

     それを弟子たちは聞いていたのです。これは、イエス様の言葉を覚えていたと言うことです。

     この記事は、マタイの福音書にも書き記されています。マタイとマルコでは、実は大きな違いがあるのです。

     マタイによれば、

    『イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられた。翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。
     道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」(マタイの福音書21:17~21:20)』となっているのです。

     マルコでは、主イエス様が「いちじくの木」を呪われた日の次の日の朝に、シモン・ペテロは、「いちじくの木」が枯れていることを発見するのです。それでイエス様に申し上げたのです。
    「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」

     しかしマタイでは、弟子たちの見ている間に、いちじくの木が枯れてしまうのです。しかも根元まで。
     それで弟子たちは、イエス様に申し上げるのです。
    「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」

     これは、どちらが正しいのでしょうか。聖書は誤り無き神の言葉であるはずです。一言一句間違いないはずです。しかしこのように時制の違いや、また内容の違いも存在するのです。ここから聖書批評学が生まれることになったのです。この学問は、はたして聖書は本当に神の言葉だろうか、と疑うものなのです。一部は神の言葉で、一部は人間が書いたものとか、分析したり分けたり。

     しかし、私たちは「聖書」を、神の言葉と信ずる者なのです。聖書は聖霊様が、約四十人ほどの人を用いられて書かせた書物なのです。確かに、そこには人間の手が存在します。ただそのままを受け止めることこそが、私たちの信仰態度であると思うのです。

     では、どちらが正しいのでしょうか。真実は神様だけがご存知ですが、私の解釈ではマタイが正しいと思われるのです。なぜならマルコの福音書を基にして、マタイはユダヤ人の為に福音書を書くことになったからです。そしてその時、若干違っていたことを訂正したことは十分に考えられるのです。

     さらに言わせていただければ、マルコの福音書とマタイの福音書との時制に、混乱がまだ残されていた為、ルカが正確に時制を調べ上げ、福音書を書く必要に迫られたのです。ルカの福音書の冒頭に、ルカはこのように書き記しています。

    『私たちの間ですでに確信されている出来事については、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。
     それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。(ルカの福音書1:1~1:4)』

     そしてさらに言わせていただければ、マタイ・マルコ・ルカにおける共観福音書をすべて知っていたヨハネが、まだ大切な真理や出来事が抜け落ちていたことを知って、「第四福音書を書き記すことになるのです。それは、三つの共観福音書が書かれてから、四十年以上後のことです。
     最後に、一番大事なことは、主イエス様の言葉によって、いちじくの木が根元まで枯れたことです。》

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