◇◆◇日々のみ言葉
2016年2月24日(水)
◎聖書箇所 【マルコの福音書11章22節~23節】
11:22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。
11:23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」
◎ショートメッセージ
《主イエス様が、ろばの子に乗られて、エルサレムに入場されてから三日目の朝のことです。
二日前に主イエス様が呪われたいちじくの木が根元まで枯れていたのです。それを見たシモン・ペテロは思い出して、イエス様に言いました。
「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」
すると主イエス様は言われたのです。
「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」
マタイは、平行記事としてイエス様の言葉をこのように書き記しています。
『「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」 (マタイの福音書21:21~21:22)』
比較して見ますと、マルコとマタイとでは、少しニュアンスが違うことが分かるかと思われます。
マルコにおいて、イエス様ははっきりと「神を信じなさい」と言われました。
ところで、この言葉をイエス様は、誰に語られたのでしょうか。それは弟子たちにです。イエス様を信じ、そして何もかも捨てて従って来た弟子たちに対してです。
また、この言葉は、私たちに対しても語られているのです。
皆さん。これは未信者に対してではなく、主イエス様を信じる者に、恵みによってすでに救われ、「永遠のいのち」をいただいたクリスチャンに対して語られているのです。
私たちはこの世に生きています。この時の弟子たちも、一世紀ですが、この世に生きていたのです。
私たちは、信じると言っておきながら、実は、なかなか信じることが出来ない者なのです。
主イエス様は、いやされた人に良くこんな風に言われました。
「あなたの信仰があなたを救ったのです。」
イエス様は、なぜこの時に弟子たちにこのように教えられたのでしょうか。
「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」
「この山に向かって動いて海に入れ」とは、当時の慣用句であって、それは「不可能」を意味します。また「山」とは、文字通りの「山」ではなく、一人一人の抱えている問題を表わすのです。
その問題に向かって、動くこと、それは解決することを指します。しかもイエス様は口で言うことを命じられています。「自分の言ったとおりに。」
それゆえ、私たちは、口で告白しなければならないのです。
しかも、心の中で疑わずにです。
信仰は勝利をもたらします。しかし不信仰は、何ももたらしません。悪魔や悪霊は、私たちの心の中に不信仰の矢を放って来ます。
私たちは、「自分で言ったとおりになること」を、神によって信じなければならないのです。
弟子たちの信仰は、まだまだ不完全でした。主イエス様と共に三年半も過ごしたにも関わらずにです。
弟子たちでさえ、そのような信仰であったとしたら、主イエス様を直に見ることも触れることも出来ない私たちには、どれほどの信仰が与えられているのでしょうか。
主イエス様は、使徒トマスに言われました。
「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信ずる者は幸いです。」と。
私たちは、どうしても目に見えるものに頼ってしまい、また目に見える状況で判断しがちです。
しかしこの世界には、目に見えない世界も、本当に存在しているのです。
「信仰」は目には見ることが出来ません。しかし、その人が本当に、イエス様を信じ、イエス様により頼み、イエス様を見続け、その語られたみ言葉にしっかりと留まっていたのなら、間違いなく、自分の言ったとおり、そのとおりになることを、確信します。
信仰こそが、私たちを導くのです。神様のみ言葉である「聖書」に導かれ、聖霊様と共に、信仰の旅路を引き続き歩いて行こうではありませんか。》