• 日々のみ言葉 2016年2月26日(金)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2016年2月26日(金)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書11章25節~26節】

    11:25「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」
    11:26 [本節欠如]

    ◎ショートメッセージ

    《主イエス様は弟子たちに言われました。

    「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」

     そしてイエス様が続けて言われたのが、今日の聖書箇所となります。

     26節は「本節欠如」となっていますが、異本には、次の文章が26節として挿入されています。その文章を加えて、今日は学ぶことにしましょう。するとこうなります。

    『11:25「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。
     11:26 しかし、もし赦してやらないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの罪を赦してくれません。」』

     主イエス様は、神を信じ、問題に向かって、「動け」と口で言って、心の中で疑わず信じるなら、そのとおりになると言われました。また祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じるなら、そのとおりになるとも言われました。

     その続きの文章として、今日学ぶ箇所は、一体何の関係があると言うのでしょうか。
    確かに「また」なのです。
     ギリシャ語では、カイという接続詞が使われています。その意味は、結構広くて、「そして、~さえ、しかし、しかも、それでは、そうすれば、」と言う意味を含んでいます。

     それではどういうことなのでしょうか。

     それは、祈りが答えられるためには、また祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じて、そのとおりになるためには、条件があると言うことなのです。

     その条件が、自分に対して他人が犯した罪を赦すことなのです。
    「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。」

     この「立って祈っている時」とは、文脈から間違いなく「領収書の祈り」を指し示します。

     そして
    「そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」
    と言われました。

     私たちは、イエス様の身代わりの十字架によって罪赦された者です。イエス様は、私の犯したすべての罪を背負われて、死んでくださいました。そして、救い主となってくださいました。何からの。そうです。「白い御座の裁き」からです。「永遠の滅び」からです。「地獄」からです。「火の池に投げ落とされる第二の死」からです。
     このことを心から信じ、私の口で、あなたの口で、「イエス様は私の主です」と告白する者には、罪赦され、そればかりではなく「永遠のいのち」が与えられるのです。

     しかし主イエス様は、まだイエス様を知らない人、あるいは信じていない人に対して話してはおられません。
     そうです。弟子たちに対してです。救われた私たちに対してです。すべてのクリスチャンに対して、語っておられるのです。

    「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。しかし、もし赦してやらないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの罪を赦してくれません。」

    「だれか」とは、誰でしょう。主にある兄弟姉妹でしょうか。それはもちろんですが、私たちの回りに存在するすべての人を指してはおられないのでしょうか。

     主イエス様の十字架のあがないを信じることによって、私たちが主イエス様を信じる前に犯したすべての罪は、確かに赦されました。赦されたのです。
     しかし、その後も私たちは弱い者ですから、罪を犯してしまう者なのです。もし私は、二度と罪を犯さないと言う自信たっぷりの人がいたとしたら、傲慢の罪を犯していることになります。私たちは、聖霊様の助けなくては、罪から離れた生活を、この世において送ることは不可能です。聖霊様と共に歩まなければならないのです。
     
     人は誰でも、自分には甘く、他人には厳しいものなのです。それゆえ、なかなか人を赦すことが出来ません。特に裏切られたこと、だまされたこと、粗末に扱われてことなど、もう数えればきりがありません。

     イエス様は、「だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。」と言われます。

     それでは、もし赦さなければどうなるのでしょうか。

     「もし赦してやらないなら、天の父も、あなたがたの罪を赦してくれません。」
     これは、罪を赦さない代わりに、間違いなくあなたの祈りには、天の父なる神は、答えてくださらない、と考えられないでしょうか。

     なぜなら、イザヤ書にはこう書かれているからです。

    『見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ書59:1~59:2)』。

     結論を述べましょう。罪赦された私たちが、他人の罪を赦さないことが罪になるのです。》

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