• 日々のみ言葉 2016年3月2日(水)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2016年3月2日(水)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書12章4節~5節】

    12:4 そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はずかしめた。
    12:5 また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした。

    ◎ショートメッセージ

    《それから主イエス様は、たとえを用いて祭司長、律法学者と民の長老たちに話し始められました。
    「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。」

     今日は、イエス様のはなされた「悪い農夫たちのたとえ」の続きとなります。

     このたとえ話は、マタイとルカの福音書に掲載されています。今日はその違いを見てみることにしましょう。

     マタイの福音書によれば、

    『「もう一つのたとえを聞きなさい。ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
     さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。
     すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。
     そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。
     しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、息子を遣わした。
     すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』
     そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。このばあい、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」
     彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」(マタイの福音書21:33~21:41)』となっています。

     ルカの福音書によれば、

    『また、イエスは、民衆にこのようなたとえを話された。「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。
     そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちのところへひとりのしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。
     そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべも袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した。
     彼はさらに三人目のしもべをやったが、彼らは、このしもべにも傷を負わせて追い出した。
     ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。』
     ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。『あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』
     そして、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった。こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。
     彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」これを聞いた民衆は、「そんなことがあってはなりません。」と言った。
    (ルカの福音書20:9~20:16)』となっています。

     三つの共観福音書を見比べると、やはり若干の違いがあることがわかります。マタイとマルコの福音書では、イエス様は、祭司長、律法学者と民の長老たちに、このたとえを話されたのですが、詳しく調べたルカによれば、このたとえは民衆に語られたことになっているのです。
     しかも、マタイでは、最後に祭司長、律法学者と民の長老たちが、「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」と、イエス様に答えたのに対して、ルカでは、「そんなことがあってはなりません。」と答えたのは、民衆になっています。

     ここからマタイは、マルコの福音書をもとに、福音書を書き記したことが明白であることが分かります。しかし医者ルカは、独自に詳細に渡って調べ尽くし、福音書を書いたことが分かります。もちろんルカの手元には、マタイとマルコの福音書の写しがあったことは間違いないでしょう。

     いったいこの違いは、どこから生じるのでしょうか。
    以前、私は尾山令仁先生に、質問したことがあります。その答えは、ひじょうに的を得ており、また思いもつかない答えでした。

     つまり三人の別な著者によって書かれた福音書は、事実、真実であるからこそ、このような表現の違いが生じるとのことでした。つまり事実だからこそ違っている、と言うことなのです。
     そして、このような「たとえ」をされました。
    『私たちがある人を見たとしましょう。前から、右横から、左横から、そして後ろからと4つの面からその人を見たら違っているはずです。しかし、どの面から見てもその人はその人なのです。見る人によって角度が、視点が違うだけなのです。』

     今日の聖書箇所では、神様は何度も何人も預言者を遣わしたのにもかかわらず、イスラエルは、ユダヤ人は悔い改めようとしなかったことを、イエス様は強調されたのです。》

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