• 日々のみ言葉 2016年3月3日(木)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2016年3月3日(木)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書12章6節~7節】

    12:6 その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。
    12:7 すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』

    ◎ショートメッセージ

    《『それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
     季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。
     そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はずかしめた。また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした。(マルコの福音書12:1~12:5)』

     引き続き、主イエス様の語られた「悪い農夫のたとえ」について学びます。マルコとマタイの福音書においては、イエス様は、このたとえ話を、祭司長、律法学者と民の長老たちに話されたとなっています。
     ルカの福音書では、民衆に向かって話されたとあります。しかし前後関係から、そこには祭司長、律法学者と民の長老たちが同席していたことが分かります。

     ではなぜイエス様は、ぶどう園のたとえ話をされたのでしょうか。
    実は、ユダヤの指導者たちが良く知っているイザヤ書には、こう書かれているのです。

    『「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。
     彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。
     そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。
     わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。
     さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑に対してすることを。その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。
     わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。」
     まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。(イザヤ書5:1~5:7前半)』

     イザヤ書では、農夫は出て来ません。しかし7節には、はっきりと『万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。』と書かれています。
     それゆえ農夫とは、そのぶどう園を世話する者、イスラエルの家とユダヤの人々を世話する者を指すことになります。すなわち上に立つ者たち、指導者を意味するわけです。
     またなぜ酸いぶどうが出来たのでしょうか。それは農夫が悪かったこと、ユダヤの指導者たちに責任があることを、暗示しているのです。

     本日の聖書箇所に戻りましょう。
     イエス様は言われました。
    「その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』」

    「その人」とは、神様を指しています。
    「愛する息子」とは、もちろんイエス様ご自身のことです。
     そして農夫たち、すなわち祭司長、律法学者と民の長老たちは、イエス様を殺そうとしていたのです。そのことを、「悪い農夫のたとえ」を用いて、イエス様は、明らかにしているのです。

     では、なぜ祭司長、律法学者と民の長老たちはイエス様を殺そうとしていたのでしょうか。それは、「ねたみ」です。イエス様が自分たちの立場を危うくする者と写ったのでした。またイエス様に対する民衆の熱狂的な歓迎ぶりも気に入らなかったのです。まさしく邪魔者は排除せよ、と言うことです。

     あと数日の後には、イエス様はゴルゴタの丘において十字架に架けられます。その時に生きていたすべての人々の罪の為に。そして私たちの罪の為に。救いの為に。

     私はこう思うのです。もしこの時、民の指導者たちが、すなわちサンヘドリン議会の議員全員が悔い改めて、イエス様を神の御子として迎え入れていたとしたら。
     もちろんあくまでも、私個人の仮定にしか過ぎないのですが、その時にはきっとユダヤの人々だけではなく、全世界の人々に違った歴史が刻まれたと。
     しかしたとえそうであったとしても、やがて主イエス様は、遅かれ早かれ、十字架に架かられ死んで行かれるのです。なぜなら、イエス様の十字架が無ければ、私たちは今でも罪の中をさまよい続けることになるのですから。
     十字架こそが、唯一の救いの道です。ここに「神の愛」が、掲げられています。

     今から、二千年ほど前に起こったイエス・キリストの十字架。この十字架にどう向き合うのか、今生きているすべての国の人々に、創造主なる神は、決断を問うておられるのです。
     私やあなたの罪の身代わりとして、イエス様は十字架に架かられ死んでくださいました。私やあなたが永遠に生きるために。
     人は、そのことを心から信じ、口で「イエス様は、私の主です。私の救い主として受け入れます。今まで犯して来た私の罪の身代わりとして死んでくださり、三日目によみがえられたことを信じます。」と告白したら、その人は新しく生まれ変わるのです。永遠のいのちを授かるのです。》

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