• 日々のみ言葉 2016年3月4日(金)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2016年3月4日(金)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書12章8節~9節】

    12:8 「そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。
    12:9 ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」

    ◎ショートメッセージ

    《主イエス様は、たとえを用いて祭司長、律法学者と民の長老たちに話し始められました。このたとえは、「悪い農夫のたとえ」と言われています。

    「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。
     ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はずかしめた。
     また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした。
     その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』

     この続きが、本日の聖書箇所となります。

    「そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。」

     この「たとえ」は、主イエス様ご自身にこれから起ころうとする「十字架」のことを預言してます。

     「彼をつかまえて」
     この預言は、三日後にゲッセマネの園において成就します。

     「殺してしまい」
     主イエス様が十字架につけられるのは、今週の金曜日、すなわち聖金曜日と言われている日となります。このたとえ話をされてる時は、その週の火曜日と言われていますので、三日後となります。ただマルコの福音書によれば、水曜日となっています。
     新約聖書の時制では、ユダヤ時制で書かれたり、またローマ時制で書かれたりしていますので、時間帯によっては、日にちが、微妙に変わったりしてしまいます。
     ユダヤ時制は、夕日が沈むと新しい一日が始まります。現在で言う午後6時が、午前0時となるのです。
     しかしローマ時制は、現在と同じで午前0時から新しい一日が始まります。その辺りの違いから、時制に少し混乱があるようです。
     少なくとも日本語訳聖書においては、原文に忠実なことも良いのですが、ぜひとも時制をローマ時制に統一して欲しいと思います。 

    「ぶどう園の外に投げ捨てた」
    「ぶどう園」とは、イスラエルを指し、ユダヤ人を指します。悪い農夫たちは、「ぶどう園の主人の愛するひとり息子」を、ユダヤ社会から追放し、異邦人に引き渡すことを指し示しています。その通りになり、数日後にイエス様は、ローマ総督ポンテオ・ピラトに引き渡されるのです。

     イエス様は、このように言われました。
    「ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。」

     マタイの福音書においては、イエス様のこの言葉が、祭司長、律法学者と民の長老たちへの質問となっています。
     そして、その質問に対する彼らの答えが書き記されています。

    『「そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。このばあい、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」
     彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」(マタイの福音書21:39~21:40)』

     また、マルコの福音書においては、イエス様が、
    「ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」と言われています。ルカの福音書も同じです。

     さて、これは大変なことを、イエス様は預言しておられるのです。まずは、
    「農夫どもを打ち滅ぼし」
     これは、祭司長、律法学者と民の長老たちが、やがて打ち滅ぼされることを預言しています。この預言は紀元70年に成就します。

     次に、「ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」

      この預言には二つの意味があります。
     一つは、イスラエルの国の領地が、他の国のものとなり、ユダヤ人は散らされると言うことです。
     そしてもう一つの意味は、救いが異邦人の手に渡されると言うことです。
     これこそが、異邦人である私たちに福音が届けられることとなった最大の理由であり、また恵みそのものなのです。

     一つ目の預言は、1945年になるまでは、成就しませんでした。今私たちは、イスラエルと言う国が現存していることを知っています。

     そしてもう一つの預言は、今も成就の真っ只中にあります。ユダヤの人々は、メシヤニック・ジューの人々を除いては、未だにイエス様を否定し続けています。
     しかしそれは異邦人の数が満ちる時までなのです。神様の救いのご計画の予定の中にある異邦人、すなわち私たち日本人も含めてですが、最後のひとりが救われた時に、「異邦人の時」は終わります。
     そしてその時に、花婿なるイエス様が、花嫁である教会を引き上げに来られるのです。携挙が起こります。イエス様の空中再臨がなされるのです。
     異邦人の時が終わった後、救いはユダヤの人々に戻されることになります。》

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