• 日々のみ言葉 2016年3月7日(月)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2016年3月7日(月)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書12章13節】

    12:13 さて、彼らは、イエスに何か言わせて、わなに陥れようとして、パリサイ人とヘロデ党の者数人をイエスのところへ送った。

    ◎ショートメッセージ

    《『それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
     季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。
     そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はずかしめた。
     また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした。
     その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。
     すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』
     そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。
     ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。
     あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』」
     彼らは、このたとえ話が、自分たちをさして語られたことに気づいたので、イエスを捕えようとしたが、やはり群衆を恐れた。それで、イエスを残して、立ち去った。(マルコの福音書12:1~12:12)』

    「悪い農夫のたとえ」の学びの最後となります。
     パリサイ人と律法学者たち、また祭司長と民の長老たちは、何とかして主イエス様を殺そうとし、その為に訴える手段はないのか、罠に陥れようとして、ある人々を派遣したのです。
     ここで言う「パリサイ人」とは、サンヘドリンの議員を指し示すことは、言うまでもなく以前にも学んだ通りです。

     しかし、ここで不思議な人物たちが出現するのです。
     それが「ヘロデ党」なのです。

    「ヘロデ党」とは、ヘロデ王朝を支持する目的を持ったユダヤ人の団体を指します。ローマの支配を背景に、ヘロデ王家の者がユダヤを治めることを望んでいた人たちで、政治的色彩の濃い団体でした。福音書の記録以外、この団体については不明ですが、主イエス様の教えは、パリサイ派とは相いれず、またヘロデ党の持つ理想や方針とも食い違っていたため、そこでヘロデ党とパリサイ派の者たちは宗教や政治で異なった立場に立ちつつも、手を結んで敵対したのです。

     パリサイ人とヘロデ党が手を組むことは、主イエス様の公生涯の初期の段階からです。
     マルコはこう書き記しています。

    『イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。
     イエスは手のなえたその人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。
     イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。
     そこでパリサイ人たちは出て行って、すぐにヘロデ党の者たちと一緒になって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた。(マルコの福音書3:1~3:6)』と、なっています。

     パリサイ人は、宗教的指導者でした。しかし「ヘロデ党」は、世俗主義的な考えを持つ者が多く、なぜこの二つの異なる団体が手を組むことになったのか、不思議なことですが、その背後には、悪魔・悪霊どもの存在があったことは、間違いのないことだと思われます。

     悪魔・悪霊どもに操られた彼らは、主イエス様を殺してさえしまえば、自分たちが勝利することになることを、確信していました。

     しかし皮肉にも、彼らが勝利したと思われた「十字架」こそが、実は神の勝利のしるしであり、高く掲げられた「愛の御旗」なのです。
     悪魔・悪霊どもが、もしそのことを知っていたとしたら、間違いなく彼らは、主イエス様を十字架につけはしなかったでしょう。十字架を阻止しようとしたはずです。

     使徒パウロはこう教えています。

    『キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
     キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
     それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ人への手紙2:6~2:11)』

     私たちが信じているお方こそは、真の「勝利者」なるお方です。よって、主イエス様を信じ、信頼する者は、圧倒的な勝利者となるのです。》

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