• 日々のみ言葉 2016年3月9日(水)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2016年3月9日(水)

    ◎聖書箇所 【マルコの福音書12章15節前半】

    12:15 イエスは彼らの擬装を見抜いて言われた。「なぜ、わたしをためすのか。」

    ◎ショートメッセージ

    《さて祭司長、律法学者と長老たちは、主イエス様に何か言わせて、わなに陥れようとして、パリサイ人とヘロデ党の者数人をイエス様のところへ送り出して来ました。
     彼らはイエス様のところに来て、こう言ったのです。

    「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか。」

     まず最初に、彼らは主イエス様の御わざを賞賛しています。もちろんお世辞も少しはあったかとは思いますが、その根底には、彼らも主イエス様のことを、認めていたことは明白です。

    「先生」
     これは、ラビに対する、最も尊敬する言葉が使われています。

    「あなたが真実な方で」
     これは、主イエス様のなされている御わざが真実であることを指し示します。たとえば、今の時代には、マジック(手品)があることは皆、知っています。しかしマジックには、必ず種明かしがあるのです。どんなに真実に見せても、それは人間の目をごまかしたに過ぎません。
     しかし、主イエス様のなされた「五千人の給食」の奇蹟や、目の見えなかった人がいやされ、目が見えるようになったことは、種明かしがあるはずがありません。それこそ、真実そのものであり、まさしく超自然的なことだったからです。主イエス様は、本当に奇蹟をなされたのです。

    「だれもはばからない」
     この言葉は難しい言葉ですが、「人に取り入ろうとしない。」と言うことです。

    「人の顔色を見ず」
     主イエス様は、人の顔をうかがうことはなさいません。なぜなら、イエス様はすべての人の主であって、すべての人をご存知だからです。

    「真理に基づいて」
     主イエス様が、なされておられることは、まさしく真理であることを、彼らであっても認めざるを得ないことを意味しています。

    「神の道を教えておられるか」
     主イエス様は、まさしく神様が遣わされたことを告白しています。

     そして、罠に陥れる質問をしたと言うわけです。

    「ところで、カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか。」

     この質問の根底には、主イエス様が宣べ伝えておられる「神の国」があります。神の国の住民ならば、この世の支配者であるローマ皇帝カイザルに税金を納めることは、モーセ五書に反していませんか、と言っているのです。

     そして彼らは、イエス様がどこの出身であるのか知っています。なぜなら「ナザレのイエス」と呼ばれていたからです。

     ナザレすなわちガリラヤは、国主ヘロデ・アンティパスの領地ですが、もちろんローマ帝国の、そしてカイザルの支配下にあります。当然イエス様も三十歳において公生涯を始められる以前には、一介の大工として生きておられ、悪名高き取税人に税金を納めていたことは間違いのないことです。
     もし「納める必要はありません」と答えようものなら、彼らはローマ帝国反逆罪として訴えることが可能だからです。

     主イエス様が十字架に架けられ、殺されることになる罪は、「ローマ帝国反逆罪」です。そのようになるよう仕向けたのが、ユダヤ最高議会サンヘドリンのメンバーたちで、その時のユダヤの指導者たちでした。

     さて主イエス様は、パリサイ人とヘロデ党の者がした質問にこのように答えます。
    「なぜ、わたしをためすのか。」

     マルコは、「イエスは彼らの擬装を見抜いて言われた。」と書き記しています。

      まことの人であって、しかも同時にまことの神であられた主イエス様には、すべてがお見通しなのです。
     イエス様は光であられます。私たちがどんなに闇の中に隠そうとも、あるいは隠れようとも、光が照らされたら、そこに何があるのか分かってしまいます。
     パリサイ人とヘロデ党の者の心の中に何が潜んでいるのか、イエス様は知っておられました。
     それゆえ、最初に「なぜ、わたしをためすのか。」と言われたのです。これは、彼らの罪を指摘しています。しかも彼らの罪は明白なのです。

      なぜなら、旧約聖書にはこう書かれてあるからです。
    『あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。(申命記6:16)』

      さて、今日の学びは、昨日の続きとなってしまいましたが、明日はさらに、主イエス様の答えられた内容に対して、目を向けて見たいと思います。》

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