◇◆◇日々のみ言葉
2016年3月28日(月)
◎聖書箇所 【マルコの福音書12章37節】
12:37 「ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう。」大ぜいの群衆は、イエスの言われることを喜んで聞いていた。
◎ショートメッセージ
《イエス様が宮で教えておられたとき、こう言われました。
「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子と言うのですか。ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています。『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』
今日は、イエス様が言われたその続きから学んで見たいと思います。
主イエス様が引用された言葉、
『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』
この言葉は、旧約聖書詩篇110篇の1節です。この詩篇は『ダビデの賛歌』と呼ばれ、その内容は、まさしくメシヤ預言です。
詩篇110篇の1節における最初の「主」と言う言葉には、ヤハヴェと言う言葉が使用されており、創造主なるお方、あるいは父なる神を指しています。
そして「私の主」と言う言葉の「主」には、別の言葉が使われています。日本語訳では、どちらも同じ「主」となっていますが。
ダビデは、創造主なる唯一の神、すなわちアブラハム・イサク・ヤコブの神によって、自分の子孫から生まれることになるキリストを「私の主」と、預言的に呼んでいることを指しているのです。
イザヤ書によれば、
『エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。(イザヤ書11:1~11:10)』と、間違いなく預言されています。
それゆえ、主イエス様は、
「ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どういうわけでキリストがダビデの子なのでしょう。」と言われたのです。
これは、「キリスト」あるいは「メシヤ」は、人となって来られることを意味すると共に、そのお方は「主」とも呼ばれ、まことの神であることを言われているのです。
つまり、ご自身こそが「ダビデの家系」であり、その血を引く者であり、旧約聖書に書かれた約束のメシヤ、キリストであることを、教えておられるのです。
大ぜいの群衆は、主イエス様の言われることを喜んで聞いていた、と書かれていますが、単に聞いていただけでは何も変わらないのです。大切なことは、主イエス様の言われたことを、心に留めることなのです。
私たちは、パリサイ人や律法学者たち、そしてこの群衆のようであってはならないのです。主イエス様のみ言葉を聞くと共に、心に留め、思い巡らし、実行する者でなくてはならないのです。》