◇◆◇日々のみ言葉
2016年3月30日(水)
◎聖書箇所 【マルコの福音書12章41節~42節】
12:41 それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。
12:42 そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
◎ショートメッセージ
《当時の通貨はおもに硬貨でした。銀貨、金貨が通常用いられたのです。神殿の献金箱は、私たちが想像するのとは違い、投げ込むと、下までらせん状になっている筒に、ガランガランあるいはジャラジャラと、けたたましい音を出すものでした。
多く献金した者には、その証として、大きな音を響かせたのです。またその反対に、僅かな硬貨しか献金しない者は、それこそ雀の鳴き声のごとく、チャリンとその小さな音を嘘偽りのないように、響かせたのです。
主イエス様は、その有様を座りながら見ておられました。
多くの金持ちが大金を投げ入れていました。それこそ、まさに自分は金持ちであり、これだけ多くの献金が出来ると言うことを誇らしげにしていたのです。
献金という素晴らしい犠牲を伴う行為が、何と言うべきでしょう、まるでショータイムのごとくであったと言うわけです。
今の時代でも同じです。お金持ちは、自分が裕福なことを誇りますが、実はその価値が永遠に保証されてはいない物、やがては消えて行ってしまう物に望みをおいているのです。
主イエス様は言われました。
『「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイの福音書16:26)』
お金には、力があります。お金を持っていることは、確かに力を持っていることです。しかし、主イエス様は言われました。
「たとえ多くの富を手にしたとても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」
お金では買えない物があるのです。お金で買うことのできない物が存在するのです。またどんなにたくさんのお金を積んだとしても、一人の人の命は買い戻せません。お金はその人を、その人の心を魂を、救うことは出来ないのです。
主イエス様は、このようにも言われたのです。
『「誰も、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイの福音書6:24)』
それゆえ大金持ちの人が救われることは、ごく希なのです。私たちの信頼の土台は、決して貯金通帳の預金高ではありません。主イエス様のみが、私たちの生きる土台なのです。このお方以外には、救い主としての名前は、人類には、何一つ与えられていません。》