◇◆◇日々のみ言葉
2016年7月8日(金)
◎聖書箇所 【マルコの福音書15章23節】
15:23 そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。
◎ショートメッセージ
《主イエス様は、ゴルゴタの丘に立てられた十字架に付けられる前に、麻酔薬を混ぜたぶどう酒を飲むことをすすめられましたが、それを飲もうとはされませんでした。
十字架の刑が、あまりにも残酷であるところから、エルサレムの貴婦人たちが、彼らの苦痛を少しでもやわらげさせようとして用意し、与えるものでしたが、イエス様は十字架の苦しみをごまかそうとはされませんでした。その苦しみをまともに受けられたのです。
私たちは、イエス様が味あわれた十字架の苦しみが、どれほどのものであったのか、知ることは出来ません。もしそれを知るには、同じように十字架にかからなければなりません。
主イエス様は、このように言われました。
『イエスは、みなの者に言われた。「だれでも私について来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そして私について来なさい。(ルカの福音書9:23)』
これは、私たちが直接、十字架にかかることではなく、イエス様が私たちの身代わりとして、十字架にかかって下さったことを、信じると共に、何時でもどんな時でも、主イエス様の十字架を見上げ、歩み続けることを教えているのです。
それゆえ使徒パウロは、このように言っています。
『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ人への手紙2:20)』
イエス様は、人間が味わうことのできる極限の苦痛を、痛みと苦しみを、になわれたのです。主イエス様を信じる者の痛みと苦しみを、主ご自身が、代わりに引き受けて下さったことを意味しています。
これがどれほどの恵みであるのか、なかなか私たちは実感することが出来ません。
本来、私たちが受けるべき罪の裁きを、イエス様は一身にお受けになられました。
それゆえ、イエス様を信じる者には、「第二の死」は、何の力も持っていません。
すべての人は罪を犯しました。罪を犯さない者は、誰もいません。たったひとり、主イエス様だけが、その生涯において何一つ罪を犯しませんでした。
それだからこそ、身代わりとなり、十字架にかかって下さったのです。このお方だけがメシヤであり、救い主であるのです。
私たちは、自分を救うことは出来ません。たとえ自分の罪のために十字架にかかったとしても、それは当然の報いであり、受けるべき裁きに過ぎないからです。
主イエス様が、私の罪の身代わりとなって十字架にかかられ、私が受ける一切の裁きを引き受けて下さいました。
そのことを信じる信仰によって、今の私は守られ、生かされているのです。それだけではありません。「永遠のいのち」が与えられているのです。》