◇◆◇日々のみ言葉
2017年2月27日(月)
◎聖書箇所 【ルカの福音書7章19節~20節】
7:19 すると、ヨハネは、弟子の中からふたりを呼び寄せて、主のもとに送り、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか。」と言わせた。
7:20 ふたりはみもとに来て言った。「バプテスマのヨハネから遣わされてまいりました。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも私たちはなおほかの方を待つべきでしょうか。』とヨハネが申しております。」
◎ショートメッセージ
《さて、バプテスマのヨハネの弟子たちは、イエス様がナインの町において、やもめとなった母親のひとり息子を生き返らせたことを報告しました。どうやら、その現場にバプテスマのヨハネの弟子たちが居合わせたらしいのです。
あるいは、イエス様の評判を聞きつけて、駆けつけていたのかも知れません。彼らは、見たことすべてを報告しました。
するとヨハネは、弟子の中からふたりを呼び寄せて、主イエス様のもとに送ったのです。このことからヨハネには、まだ多くの弟子たちが行動を共にしていたことが分かります。
バプテスマのヨハネが、イエス様に言付けた内容は、このようなものでした。
「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか。」
さて、なぜヨハネは、イエス様のもとに弟子たちを遣わしたのでしょうか。実は、二つのケースが考えられるのです。問題は、弟子に託したヨハネの言葉にあります。尾山令仁先生は、原文が疑問文にも、また肯定文にも訳せるからだと言われています。
新改訳聖書では疑問文として訳しています。つまりバプテスマのヨハネが、イエス様につまずいた内容と取っているのです。
「救い主としておいでになるはずの方は、あなたなのですか。もしかしたら、私たちはほかの方を待つべきでしょうか。あなたが救い主であるとは信じられないのです。」と言う意味になるのです。
しかし尾山令仁先生は、現代訳聖書において肯定文として訳しています。
「あなたこそ、あの来るべき救い主です。それとも、私たちは他に誰かを待つべきだとおっしゃるのですか。」という意味になります。
バプテスマのヨハネも人の子です。主イエス様に洗礼を授けた時、彼は御霊が鳩のように降ってくるのを見ているのです。そして父なる神様の声も聞いています。
「これは私の愛する子。私はこれを喜ぶ。」
それにも関わらず、彼がそのように感じたのなら、ヨハネもイエス様を政治的メシヤとして考えていた可能性は否めないのです。
しかし尾山令仁先生のように、肯定文に訳しますと、ヨハネは弟子たちを、本当のメシヤの所に送り出したと取れるのです。
自分の弟子をやめて、イエス様の弟子となりなさい、と。イエス様こそ、本当に「神の小羊」となられるお方ですと。そして「火のバプテスマ」を与えてくださるお方であると。
それだからこそ、アンデレとゼベタイの子ヨハネは、イエス様の後をついて行ったのです。》