◇◆◇日々のみ言葉
2017年4月5日(水)
◎聖書箇所 【ルカの福音書8章16節】
8:16「あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。」
◎ショートメッセージ
《イエス様は解き明かしを終えると、また短いたとえをなされました。
実は、このたとえ話には、二通りの解釈があると思われるのです。今日は、その中の一つ目の解釈について考えて見ましょう。明日は、もう一つの解釈について学びます。
それでは、何が違うのかと言いますと、「あかり」と言う言葉に、二通りの意味が含まれているのです。
それともう一つ言えることは、主語に誰を置くかなのです。
すなわち私たちクリスチャン一人一人なのか。あるいはそうではなく、神様ご自身が主語なのかによって、大いに意味が異なって来るのです。
さて、今日は、主語は「私たち」、すなわち恵みによって救われ、クリスチャンとなった一人一人を主語とします。
そして「あかり」とは、「福音」のことです。あるいは、その人自身による「救いの証」と言っても良いでしょう。
そのようにして解釈しますと、次のような意味となります。
つまり、十字架に掛かられたイエス様と出会い、その素晴らしい証を、誰にも話そうとはしないこと、あるいは主イエス様の素晴らしさを誰にも話そうとはしないことなのです。
「あかり」である福音を、良き知らせを誰にも話さないことが、「あかりをつけてから、それを器で隠すことであり、寝台の下に置いたりすること」なのです。
もっと分かりやすく言えば、福音を、主イエス様の御名を恥だと思うことです。
イエス様は、このように言われました。
『このような姦淫と罪の時代にあって、私と私の言葉を恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」(マルコの福音書8:38)』
百人のクリスチャンがいれば、その一人一人が、まことの神様に出会った時、救われた時の違った証しを持っています。その証こそが「あかり」なのです。
多くの人々が聞きたいと願う、その人だけのオンリーワンの救いの証し。その証しを語ることこそが、私たち主イエス様に従う者たちに与えられた使命なのです。
伝えましょう。語りましょう。証しましょう。するとその場所には、聖霊様がご臨在されます。そして聖霊様が働かれます。
『魂の救い』こそが最大の奇蹟なのです。しかしそれは私たちのする仕事ではありません。神様のなされる領域であり、神様の御わざなのです。
私たちのすることは、救いの証しをただ語り、伝えるだけなのです。》