◇◆◇日々のみ言葉
2017年8月23日(水)
◎聖書箇所 【ルカの福音書11章34節】
11:34「からだの明かりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。」
◎ショートメッセージ
《イエス様は、言われました。
「誰も、明かりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。」
マタイの福音書によりますと、
『「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイの福音書5:14~5:16)』と、イエス様が言われたことが書かれています。
「山上の垂訓」においての教えでは、弟子たちへの教えであることが分かります。なぜならその主語が「あなたがた」となっているからです。
しかし今回パリサイ人や律法学者たちにイエス様が言われたことは、ご自身こそが「明かり」であると言うことなのです。
まことの世の光であるイエス様が、奇蹟という燭台の上に置かれて、人々の目に見えているはずなのに、なぜパリサイ人や律法学者たちを含むユダヤ人の指導者たちには、それが見えないのでしょうか。
その答えが今日の聖書箇所なのです。
「からだの明かりは、あなたの目です。」
盲目の人でなければ、目が見えないと言うことはどのようなことなのか、真には分からないと言えます。
以前私は、たくさんの山に登ったことがありますが、本当に真っ暗闇と言うことを一回だけ体験したことがあります。その時、若干ですが、盲目の人の気持ちが、ほんの少しだけ分かった気がしました。
ただその時に、私は登山用の懐中電灯を持っていました。真っ暗闇の中のその一つの明かりが、どれほど明るかったか、またどれほどに周りを照らしていたのか、イエス様が「山上の垂訓」において、弟子たちに言われた言葉の意味も垣間見た気がしたのです。
さて、話を元に戻しましょう。
目が悪ければ、どうしてまことの世の光であるイエス様を見ることが出来るのでしょう。見たくても見えないのです。
パリサイ人や律法学者たちの目は、悪魔によって、あるいは自分たちが学んで来た律法などによって、曇らされていたのです。
もっとはっきり言えば、彼らの教養や受けた教育、要するにプライドが邪魔をしていて、無学なイエス様や、十二使徒たちを、純粋な目で見ることが出来なかったのです。
では、そのような人はどうしたら良いのでしょうか。
黙示録によりますと、
『「私はあなたに忠告する。目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」(黙示録3:18抜粋)』と書かれています。
具体的には、「悔い改め」を意味します。悔い改めの涙は、目の汚れを流すのです。》