• 日々のみ言葉 2017年8月26日(土)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2017年8月26日(土)

    ◎聖書箇所 【ルカの福音書11章38節】
    11:38そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て、驚いた。

    ◎ショートメッセージ
    《さて、イエス様が話し終えると、ひとりのパリサイ人が、食事を一緒にしてください、とお願いして来たのです。そこでイエス様と十二使徒たちは、そのパリサイ人の家に入って、食卓に着いたのです。

     イエス様とそのパリサイ人との間には、敵対関係ではなく、ある程度の親しい関係があったことを、尾山令仁先生は述べています。
     なぜなら、その頃、多くのパリサイ人や律法学者たちは、イエス様を陥れようとして躍起になっていたからです。

     イエス様が、そのパリサイ人の申し出を受けられたことは、以前からの顔見知りであったかも知れないのです。これはあくまで私の推測ですが、ニコデモもしくはアリマタヤのヨセフではないでしょうか。

     後ほど分かることですが、このパリサイ人の家には、主人のパリサイ人だけでなく、他に大勢のパリサイ人や律法学者たちが、その食卓に同席することになります。

     イエス様と十二使徒たち、そして主人であるパリサイ人と、おそらくその大勢の同僚たちが、一同顔を合わせて食卓を囲むとなると、かなり大きな家ではなかったのではないでしょうか。

     当時のパリサイ人や律法学者たちは、その宗教的な働きではなく、副業によって生計を営んでいたのです。パウロが、天幕作りの職人であったようにです。とすれば、相当裕福な家であったかと思われるのです。

     さて、ユダヤの家には必ずきよめの為に手を洗う、大きな水がめがいくつか置いてありました。水がめと言いますと、ヨハネの福音書の最初のしるしである、水をぶどう酒に変えた奇蹟において、イエス様が用いられた水がめを思い起こさせます。

     もちろん食事の前に手を洗うことは、衛生的には、とても大切なことです。しかし、今日の聖書箇所における「きよめの洗い」は、別な意味を持っています。それは、単に手を洗う行為ではなく、霊的に汚れたことを洗い流す為に行なわれたからです。

     つまりパリサイ人や律法学者たちに取っては、自分たち以外の人々は汚れた存在であることを意味しています。彼らにとって異邦人は、人間ではなく犬と同じ存在なのです。

     それだからこそ、イエス様はあえて、きよめの為に用意された水がめでは手を洗われなかったのです。

     ミシュナにはこう書かれています。
    「神が定めた聖書の律法を守ることよりも、昔の人の言い伝えを守ることの方が非常に大切である」と。

     これがパリサイ人や律法学者たちの実体でした。彼らはみ言葉に従わず、人間が決めたことに従っていたのです。》

Comments are closed.