◇◆◇日々のみ言葉
2017年8月29日(火)
◎聖書箇所 【ルカの福音書11章42節】
11:42「だが、忌まわしいものだ。パリサイ人。あなたがたは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛とはなおざりにしています。これこそ、実行しなければならない事がらです。ただし他のほうも、なおざりにしてはいけません。」
◎ショートメッセージ
《昨日と同じ聖書箇所からの学びとなります。
イエス様のお言葉は、ご自分を食事に招待してくれた、ひとりのパリサイ人ではなく、彼と一緒に食卓についている、同僚のパリサイ人たちに、向けられてのお言葉なのです。
「忌まわしいものだ。パリサイ人。あなたがたは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛とはなおざりにしています。」
これは、パリサイ人や律法学者たちが、忠実に十分の一を納めていることを言われています。しかも本来ならば、自分たちの副業や、穀物、家畜を売った十分の一を納めれば良いのですが、それ以上に納めていることを、イエス様は指摘しておられるのです。
もちろん、それほどに納めることが出来るのは、素晴らしいことであり、また祝福もあってのことでしょう。
しかしイエス様は、
「公義と神への愛とはなおざりにしています。これこそ、実行しなければならない事がらです。」と言われるのです。
今日のみ言葉の前に、イエス様が彼らに教えられた事は、外側ではなく内側を清めなさい、と言うことでした。その教えに関係があるのです。
「公儀」とは何でしょうか。
それは、貧しい者に分け与えたり、またやもめに良くしてあげたりすることです。力のある者が、力の無い者や弱っている者に手を差し伸べることは、まさにイエス様がなされた愛の行為であるとも言えるでしょう。
そして「神様への愛」とは、
心の内側の問題なのです。見栄と偽りからの行為ではなく、神様を心から愛して、十分の一を納めなさい、と言うことなのです。
そして、もし本当にパリサイ人や律法学者たちが、神様を愛していたのならば、イエス様こそが神の御子であり、救い主であることが分かるはずなのです。
だからこそ、旧約聖書に通じていたニコデモや、アリマタヤのヨセフは、イエス様に出会えたのです。
そして最後に、十分の一についてイエス様が言われたことです。イエス様は神様です。
マラキ書には、
『人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたは私のものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、私のものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。
十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、私の家の食物とせよ。こうして私をためしてみよ。万軍の主は仰せられる。私があなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかを試してみよ。(マラキ書3:8~3:10)』と書かれています。
これは、父なる神様が言われたことです。と言うことは、イエス様と聖霊様も、共に言われたことなのです。十分の一を捧げることは、正しいことなのです。》