◇◆◇日々のみ言葉
2017年10月19日(木)
◎聖書箇所 【ルカの福音書13章6節~9節】
13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。
13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』
13:8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。
13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」
◎ショートメッセージ
《引き続き「実のならないいちじくの木」のたとえから、三度目の学びとなります。
「ある人」とは、父なる神様を指し、「番人」とはイエス様を指しています。そして「いちじくの木」とは、パリサイ人や律法学者たちを含むユダヤの指導者を指しています。
イエス様は、この後、一年にわたり、パリサイ人や律法学者たちに真理を何度も教え、また御わざを通して、悔い改めの機会を与えられました。それが「肥やし」なのです。 その事については、使徒ヨハネが詳細に書き記しています。
『ユダヤ人たちはイエスに言った。
「あなたは、自分自身を誰だと言うのですか。」
イエスは答えられた。
「私がもし自分自身に栄光を帰するなら、私の栄光はむなしいものです。私に栄光を与える方は、私の父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である。』と言っています。けれどもあなたがたはこの方を知ってはいません。しかし、私は知っています。もし私がこの方を知らないと言うなら、私はあなたがたと同様に偽り者となるでしょう。しかし、私はこの方を知っており、そのみ言葉を守っています。あなたがたの父アブラハムは、私の日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」
そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。
「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」
イエスは彼らに言われた。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、私はいるのです。」(ヨハネの福音書8:53~8:58)』
「私はいるのです。」
これは、イエス様が「エゴー・エイミ」、訳すと「私はあってある者である」と言われたのです。モーゼに語られた神様の言葉であり、ご自身こそが、その神様であることを証言されたのです。
そして成された「御わざ」とは、生まれつき目の見えない盲人の青年をいやしたことと、第七のしるしと言われるラザロのよみがえりです。しかし、彼らはそれでも信じようとはしないのです。
「それでもだめなら、切り倒してください。」
この言葉は、紀元70年に成就することになります。しかしそれまでには、イエス様の十字架からさらに40年ほどの猶予期間があったのです。彼らが悔い改める為に。
神様は、可能な限り、最後の最後まで「恵みの時」を引き延ばされるのです。しかし、それは永遠ではなく、ついには裁きが執行される時が来るのです。》