◇◆◇2017年12月3日第一主日礼拝
◎本日の聖書箇所【ヨハネの福音書13章1節~4節】 (新約p.189上段右側)
13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
13:2 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、
13:3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、
13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
◎メッセージの概要 【その愛を余すことなく】
《使徒ヨハネは、主イエス様の最後の一週間に、その福音書のかなりのページを割いています。特に13章から20章までは、いわゆる最後の晩餐からイエス様の十字架の死に至るまでを明確に、かつ綿密に書き描いているのです。
13章からは、カトリック教会では「聖金曜日」と呼ばれている所から始まっています。何度も申し上げますが、ユダヤ暦は現代の太陽暦とは異なり、午後六時から新しい一日が始まるのです。よって最後の晩餐は、今で言うならその日、つまり木曜日の夕食となるわけです。 実は、三つの共観福音書と第四福音書と呼ばれるヨハネの福音書では、時制が一日ずれていることになるのです。三つの共観福音書では、過越の祭の第一日の過越の小羊をほふる日となっていますが、ヨハネではその前日となっているのです。しかしあえてイエス様が置かれた状況から判断しますと、ヨハネの時制が正しいと言えるのです。なぜなら、レビ記にはっきりと、『第一月の十四日には、夕暮れに過越のいけにえを主にささげる。』と書かれてあるからです。また祭司長やパリサイ人や律法学者たち、サンヘドリン議会のユダヤ指導者たちは、汚れて「過越の小羊の食事」を食べられなくなることを避ける為に、その祭りが始まる前に何とかしてイエス様を殺そうとしていたからです。
しかし神様の摂理によって、まさにイエス様は、「過越の小羊」がほふられるその時に、「神の小羊」として十字架上で死んで行かれるのです。
さて、ヨハネの福音書13章は、最後の晩餐の場面から始まります。その夕食の時に、イエス様は愛を示される行為を弟子たちになさいます。それが「洗足式」なのです。イエス様は、上着を脱がれます。当時、洗足は奴隷がする仕事でした。この時イエス様は、師であられる立場から、奴隷の身分まで身を低くされ、弟子たちの足を洗われました。もちろんイスカリオテのユダの足も洗われたのです。そのことを示す為に、あえてヨハネは、ここにイスカリオテのユダのことを挿入しているのです。
ダビデ王は、預言者でもありました。ダビデによる詩篇41篇と51篇には、メシヤが友に裏切られることが明確に預言されています。
イエス様は、十二使徒たちを「友」と呼ばれました。ゲッセネマの園において、ついに裏切り者ユダが近づいて来た時、イエス様は彼に、「友よ。何のために来たのですか。」と言われました。最後の最後まで、主イエス様は、ご自身が愛された者に、その愛を余すことなく降り注がれたのです。
さて、三つの共観福音書には、なぜかこの「洗足式」のことは書き記されてはいません。それゆえあえてヨハネが、何十年も経て後、ここに書き記したとも言えるのです。イエス様は、一度上着を脱がれます。しかし、洗足を終えてから再び上着を着ることになります。これは、復活を比喩しているのです。
またイエス様がここになされた行為については、使徒パウロが、ピリピ書に書き記し説明しています。
『キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。』
私たちの救い主は、本当に極限に至るまで、その身を低くしてくださいました。なにゆえに。それは人間を、私たち一人一人を本当に愛しておられたからです。イエス様は、イスカリオテのユダをもお赦しになられたのです。
しかしユダは、イエス様の御もとに戻っては来ませんでした。私は、イエス様は、ご自分の命が消えるその瞬間まで、十字架のもとに、イスカリオテのユダが戻ることを願っておられたと思うのです。しかし、イスカリオテのユダは、イエス様が贖いの死を遂げられる前に、首を吊って、谷底に真っ逆さまに落ちて、死んで行ったのです。
その数時間前に、イエス様は彼の足を洗ったのにも関わらず。主の御心は、ご自身を信じた者が永遠の命を得ることなのです。》