◇◆◇日々のみ言葉
2018年2月11日(日)
◎聖書箇所 【ルカの福音書18章35節】
18:35 イエスがエリコに近づかれた頃、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。
◎ショートメッセージ
《今日から、盲人バルテマイのいやしの学びに入ります。
ルカは、「ある盲人」としか書いていませんが、平行記事として、マルコは、彼の名を明らかにしています。
マルコの福音書によりますと、
『彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。(マルコの福音書10:46)』と書かれています。
またルカの福音書とマルコの福音書を比べますと、大きな相違があることが分かります。
それは、ルカはエリコに入る前に、イエス様が盲人を見つけるのですが、マルコは、イエス様がエリコを出られた時に、盲人バルテマイを見つけるのです。
ちなみにマタイの福音書の平行記事では、
『彼らがエリコを出て行くと、大ぜいの群衆がイエスについて行った。
すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。(マタイの福音書20:29~20:30)』となっています。
マタイはマルコの福音書をもとにして、福音書をユダヤ人の為に書き記しましたが、マタイの福音書では、何と盲人はふたりいることになるのです。しかもエリコを出て行く時にです。
これを一体どのように考えたら良いのでしょうか。聖書は誤り無き神様の言葉であるはずです。私たちは、そのように信じています。
しかし、人間の姿でさえ、様々な方向から見ると、かなり違って見えるのは当然であり、それであっても、その人はその人なのです。
つまり横から見た姿、前から見た姿、後ろから見た姿、あるいは真上から見た姿は、違っても、その人は、その人自身であるがごとく、一つの出来事も、様々な視点から見たとしたら、若干の違いが出て来るのが普通であり、そうであっても、同じ一つの出来事なのです。
「むしろ違っているからこそ、真実であると言える。」と尾山令仁先生は言われます。
当時のユダヤでは、盲人は物乞いをして生きるしかありませんでした。目が見えないと言うことは、本当に目が見えない人にしか分からない世界であると思うのです。
旧約聖書に預言されたメシヤが、まず初めにすることは、盲人の目を開くことでした。
ところで、イエス様は、エリコに初めて来られたのでしょうか。いいえ違います。エルサレム巡礼の正規の道は、ユダヤ街道であり、その道はエリコを通って行きます。エリコからエルサレムまでは四キロで、狭い険しい登り坂となります。
幼い時はもちろん、また公生涯になられてから、何回もその道を通られたに違いないのです。
とするならば、イエス様の一行が以前エリコを通られた時にも、バルテマイは、同じ場所で物乞いをしていたはずなのです。イエス様も、そこに彼がすわっていたことは、すでにご存知であったはずです。
しかし、神様の時は、いつも絶妙な時と言えるのです。バルテマイの目が開かれるには、公生涯の最後のほうまで待たなければならなかったのです。
引き続き、明日も「盲人バルテマイ」のいやしについて、考えて行きましょう。》