• 日々のみ言葉 2018年2月19日(月)

    ◇◆◇日々のみ言葉

    2018年2月19日(月)

    ◎聖書箇所 【ルカの福音書19章3節~4節】
    19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
    19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。

    ◎ショートメッセージ
    《3日間、同じ聖書箇所からの学びとなります。

     エリコの町の取税人の頭ザアカイは、イエス様がどんな方なのか見ようとしました。なぜならザアカイは、直接イエス様には、お会いしたことはなかったようです。と言うことは、イエス様もまだ直接ザアカイには会っていないことになります。

     さて彼は、何とかイエス様に近づこうと試みましたが、エリコの町の中を通るメインストリートは、それこそ大勢の人々でごった返していました。

     彼は背が低かったのです。

     もしかしたら、ここに彼の劣等感の原因があったのかも知れません。人々から、「ちびよ。ちびよ。」と、背の低さを馬鹿にされ続けて来たのかも知れないのです。

    「いつか見てろよ。もう馬鹿に出来なくしてやる。思い知らせてやる。」
     と、ザアカイは心に誓い、取税人の道を選び、取税人の頭まで昇りつめたのかも知れないのです。

     そして誰もがうやまうほどの財産を得たと言うわけです。しかし人々の彼への評価は、以前にもまして厳しいものでした。

    「罪人」「盗人」「売国奴」「ローマ帝国の犬」

     それが彼の代名詞であったわけです。名前はザアカイ、つまり「正しい人」なのに。

     お金では、その人の心の傷はいやさないのです。

     たとえば、現在ならば、イタリヤの名車フェラーリを買うことが出来たとします。人々は、賞賛してくれるでしょう。誰もが敬うほどの車を手にしたのですから。買うことが出来た人も、さぞかし鼻高ですし、嬉しいはずです。

     しかしやがて彼は気付くのです。名車を手にした喜びもつかの間のことであり、相変わらず、心の隅にポカっと空いた空洞は、埋められていないことを。
     また過去に受けた心の傷は相変わらず、うずいていることを。

     魂の飢え乾きは、心の傷は、金や物では満たすことも、またいやされることも決してありません。それが出来るお方は、ただ一人。イエス様だけだからです。

     今でも、エリコの町には、ザアカイが登ったであろうと伝えられている、「いちじく桑の木」が存在しています。

     彼はイエス様を見ようとして、いちじく桑の木に登るのです。この時こそが、ザアカイに取って、人生最大の瞬間の時であり、まさに神様が彼の人生にご介入される時として、用意されていた「神の時」なのです。

     イエス様が、そこを通り過ぎようとされた時、ザアカイはまさに、いちじく桑の木に登った時なのです。》

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