• 2018年2月18日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2018年2月18日第三聖日礼拝
    ◎本日の聖書箇所 【ヨハネの福音書13章31節~33節】 (新約p.190下段真中)
    13:31 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。
    13:32 神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。
    13:33 子どもたちよ。私はいましばらくの間、あなたがたと一緒にいます。あなたがたは私を捜すでしょう。そして、『私が行く所へは、あなたがたは来ることができない。』と私がユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。」

    ◎メッセージの概要 【今しばらくの間は、あなたがたと一緒】
    《主イエス様と十二使徒は、ヨハネ・マルコの家において最後の晩餐をされました。 そしてイエス様が、「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」とユダに言われると、ユダは、すぐに外に出て行ったのです。その時はすでに夜になっていました。席に着いていた他の弟子の中で、イエス様が何のためにユダにそう言われたのか知っている者は、だれもいなく、ユダが金入れを持っていたので、イエス様が彼に、「祭りのために入用の物を買え。」と言われたのだとか、または、貧しい人々に何か施しをするように言われたのだとか思った者も中にはいたのです。
     ユダが出て行ったあとで、イエス様が言われたことが、今日の聖書箇所となります。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。」と初めに言われましたが、別訳では、「受けました」と言う過去形ではなく、「受けます」となっています。本来はその訳の方が正しいと言えます。なぜならイエス様が栄光を受けられ、そしてイエス様によって父なる神様に栄光が与えられるのは、この時ではなく、この時から10数時間後に起こる「十字架」の御わざにおいてであるからです。罪無き神様の御子イエス様が、すべての人の罪の贖いの犠牲の小羊として、過越の小羊として屠られるのです。
     パウロはこのように言っています。
    「十字架の言葉は、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」
     十字架こそがイエス様のなされた最大の御わざなのです。
     その次にイエス様は、「神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。」と言われました。これは、3日後によみがえることを言われています。復活のことです。
     イエス様は、確かに私たちの罪の身代わりとして、その裁きをすべて受けられましたが、それで終わりではありません。父なる神様は、イエス様をよみがえらせたことによって、悪魔の最大の武器であり「死」を滅ぼされたのです。
     ペテロは、百人隊長コルネリオへの説教において、そのことを明確に語っています。
    「それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神が共におられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行なわれたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現われさせてくださいました。」と。
     そしてイエス様は、「子どもたちよ。私はいましばらくの間、あなたがたと一緒にいます。あなたがたは私を捜すでしょう。そして、『私が行く所へは、あなたがたは来ることができない。』と私がユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。」と言われましたが、このお言葉は預言でもあり、また深い意味を持っています。
     まずイエス様がユダヤ人たちに言われたのはいつ頃でしょうか。
     それは、少し前の仮庵の祭りの時に、内密にエルサレムに上って来た時のことです。よって半年以上も前のことになります。なぜなら過越の祭は、三月から四月にかけて行なわれますから、その前の年の秋のことになるのです。公生涯を始めて3年が経った頃だと思われます。
     「まだしばらくの間、私はあなたがたと一緒にいて、それから、私を遣わした方のもとに行きます。あなたがたは私を捜すが、見つからないでしょう。また、私がいる所に、あなたがたは来ることができません。」
     ユダヤ人とはパリサイ人や律法学者たちのことです。おもにサンヘドリン議会から遣わされた者たちでした。彼らは、イエス様の数度による悔い改めと救いの機会を与えられていたにもかかわらず、信じない人々でした。ここでも、あと半年ばかり、彼らに教えることを言われ、そして十字架にかかられます。
     また「あなたがたは私を捜すが見つからないでしょう。」とは、イエス様が復活された後、議会がイエス様の遺体を捜すことを預言しています。そして次に言われたことが、「また、私がいる所に、あなたがたは来ることができません。」と言うことです。 これはイエス様を信じなければ、天の御国に入れないことを宣言しているのです。
     そして弟子たちに、「子どもたちよ。私はいましばらくの間、あなたがたと一緒にいます。あなたがたは私を捜すでしょう。そして、『私が行く所へは、あなたがたは来ることができない。』と私がユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。」と言われたことは、パリサイ人や律法学者たちに言ったことと違うことを預言されています。
     まず「私はいましばらくの間、あなたがたと一緒にいます。」とは、あと数時間でゲッセマネにおいて捕らえられるまでにことだけではなく、よみがえられた後、弟子たちと一緒にいる時間のことを預言しています。そして「あなたがたは私を捜すでしょう。」とは、ガリラヤに行くように言われ、ガリラヤでイエス様を彼らが捜すことを預言しています。
     極めつけは、「私が行く所へは、あなたがたは来ることができない。」と言うことです。これは、イエス様が、よみに降られることを意味しています。主イエス様を信じる者は、天の御国に行くのです。よみではありません。
     イエス様が救い主として来て下さったのは、私たち人間は死んだ後に、白い御座の裁きがあるからです。第二の死があるからです。永遠の滅びがあるからです。しかしイエス様を信じ受け入れる者は、その裁きから救われ、永遠のいのちが与えられるのです。そして永遠に主イエス様と共にいることになるのです。》

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