◇◆◇日々のみ言葉
2018年3月18日(日)
◎聖書箇所【ルカの福音書20章14節】
20:14「ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。『あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』」
◎ショートメッセージ
《「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。
そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちのところへひとりのしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。
そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべも袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した。
彼はさらに三人目のしもべをやったが、彼らは、このしもべにも傷を負わせて追い出した。
ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。』」
マルコの福音書の平行記事では、
『すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』(マルコの福音書12:7)』と、なっており、ほとんど同じですが、ルカでは、「議論」したことになっています。
本当にわずかな事なのですが、この言葉の中に、ユダヤ最高議会(サンヘドリン)で、議員たちがイエス様を殺そうとして議論したことを、指摘しているのです。
「話し合い」ではありません。議論なのです。つまりユダヤの最高指導者たちが、イエス様を殺すことを議論し、決断したのです。決議したのです。
それこそが、神の御子イエス様に対するイスラエルの意志を表明したことなのです。
救いは、イスラエルを離れて、異邦人の方へ行くことになります。それも選民であるイスラエルが、イエス様を十字架にかけて殺してしまった結果であり、また神様の深い摂理の中での出来事となります。
「もし」と言うのは、あまり意味のないことかも知れませんが、もし当時のユダヤ人たちがイエス様を信じ受け入れ、強盗バラバではなく、イエス様を釈放するように願ったとしたら、一体どうなっていたことでしょうか。
おそらくピラトは間違いなくイエス様を釈放したでしょう。しかしそれでもやがては、イエス様は十字架にかけられたはずです。なぜなら十字架以外に人類の救いはないからです。
その時には、一年後の「過越の祭」に、今度はローマ人によって十字架にかけられたかも知れません。もちろんあくまで「IF」、つまり「もし」であって、実際は新約聖書に書かれた通りであることは、言うまでもないことです。
「十字架」こそが、私たちクリスチャンのシンボルであり、恵みのしるしです。人類(ローマ人)が考え出した、最も残酷な死刑である十字架刑。
何の罪も犯さなかったお方が、私の身代わりとして、その刑罰を受けて下さいました。そのことを信じ受け入れる者は、罪が赦され、永遠のいのちをいただけるのです。
イエス様だけが、あなたや私のすべての必要を満たして下さるお方なのです。》