◇◆◇日々のみ言葉
2018年5月7日(月)
◎聖書箇所【ルカの福音書22章17節~20節】
22:17 そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。
22:18 あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、私はもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
22:19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、私のからだです。私を覚えてこれを行ないなさい。」
22:20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される私の血による新しい契約です。」
◎ショートメッセージ
《22章20節も追加して、昨日と同じ箇所の学びとなります。
イエス様は、最後の晩餐を終えると、ここで聖餐式を制定されました。
実は、マタイとマルコの福音書とは、ルカは記述が逆になっているのです。またルカでは、杯が二回、弟子たちに回ることになっています。
マタイの福音書は、
『また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。
「取って食べなさい。これは私のからだです。」
また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。
「みな、この杯から飲みなさい。これは、私の契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。ただ、言っておきます。私の父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、私はもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」(マタイの福音書26:26~26:29)』となっており、
マルコの福音書では、
『それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。
「取りなさい。これは私のからだです。」
また杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。
イエスは彼らに言われた。
「これは私の契約の血です。多くの人のために流されるものです。まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、私はもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」(マルコの福音書14:22~14:25)』となっています。
三つの共観福音書から考えますと、ルカの福音書とマタイとマルコの福音書とでは、イエス様が、「流される血潮」と「からだを与える」対象が、違っていることに気付かされます。
ルカは、「あなたがたのために与える」そして、「あなたがたのために流される」となっており、真にイエス様は、弟子たちの為に十字架にかかられることを言っています。もちろん、それも真実です。
しかしマタイとマルコは、「あなたがた」ではなく、「多くの人のために流される」となっており、しかもマタイでは、「罪を赦すために」となっているのです。
なぜこれほどの違いがあるのでしょうか。それは、イエス様のお言葉を聞いている弟子たちの位置によって、あるいはその時のペテロ(マルコはペテロの説教をまとめて福音書を執筆した)やマタイの心の状況によって、若干受け取り方が、その人格によって違っているからです。
もしかしたらイエス様は、聖餐式の時に、二回そのことについて話された可能性もあり得るのです。最初は「あなたがた」次には「多くの人」として。
重要なことは、ここでなぜイエス様が十字架にかからなければならないのか、と言うことを、その真意を弟子たちに教えていることにあります。》