• 2018年5月6日礼拝メッセージの概要

    ◇◆◇2018年5月6日第一主日礼拝
    ◎本日の聖書箇所 【使徒の働き1章7節~12節】 (新約p.208上段左側)
    1:7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。
    1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、私の証人となります。」
    1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
    1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
    1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
    1:12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。

    ◎メッセージの概要 【主イエス様の昇天】
    《5月20日はペンテコステとなります。よって少し早いのですが、今日は主の昇天記念礼拝とすることにしました。
     さて、イエス様はよみがえらて後、約40日間にわたって弟子たちや、ご自身に関係する多くの人々に、ご自分が本当に生きておられることを示されました。
     パウロは、500人以上の兄弟たちに同時に現われたことを証しています(第一コリント15:6)。
     ギリシャ人医者ルカは、このパウロによって救いに導かれ、パウロと共にローマまで行動し、福音書と続編である「使徒の働き」を、ローマで執筆しました。
     その福音書の最後に、イエス様が、彼らをベタニヤ(オリーブ山)まで連れて行かれたことを書いています。この日こそが、40日目にあたり、主イエス様が父の御元に戻られる日であったのです。
     イエス様はすでに復活の栄光の体を持っておられました。それゆえ待ち合わせを決めて、弟子たちを先にオリーブ山に行かせ、ご自分は、一瞬に移動すれば良かったにもかかわらず、ここでは、あえてイエス様が先頭になられ、十一使徒をオリーブ山に連れて行ったのです。
     そこで、彼らを祝福されて、彼らが見ている間に、イエス様の足が地上から離れ、天に上られ、雲の中に見えなくなったのです。
     ルカは、十一使徒たちが泊まっているエルサレムの家(伝承では、最後の晩餐を行なったヨハネ・マルコの家)に戻ると、そこには 婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していたことを書き記しています。
     今回の主イエス様の昇天記念礼拝メッセージの最大のポイントは、なぜ、イエス様は十一使徒だけを、オリーブ山に連れて行ったのだろうか、と言う事です。しかもあえて徒歩で。
     オリーブ山の麓には、「ゲッセマネの園」があります。ゲッセマネとは、「油を絞る」と言う意味であり、そこにはオリーブ油の精錬場があったのです。
     また山全体にオリーブの巨木があった為、オリーブ山と呼ばれたわけです。
     イエス様と弟子たちが、エルサレム市内から、オリーブ山のゲッセマネの園に向かわれたのは、十字架にかかられる前までには、何度もあったはずです。その時には、十二使徒たちと一緒でした。
     しかし十一使徒とゲッセマネの園に行かれたのは、聖餐式の後の事であり、つまり「聖金曜日」と呼ばれる日、イエス様が十字架にかけられた日なのです。その日の再現なのです。
     あの日、ゲッセマネの園で何が起こりましたか。
     マルコの福音書を見ますと、裏切り者イスカリオテのユダが現われて、しかもローマ兵やユダヤの指導者たちと共に、イエス様を捕らえに来たのです。
     その時、弟子たち皆がイエス様を見捨てて、逃げてしまったのです。
     またマルコは、『ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕えようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。』ことを書き記しています。伝承では、マルコ自身であると言われています。
     さて、イエス様がオリーブ山のどの場所で、昇天されたかは分かりません。ただゲッセマネの園はオリーブ山の麓に存在します。もしかしたらゲッセマネの園であるかも知れません。
     重要なことは、その場所で、十一使徒たちが、イエス様を見捨てて逃げたことなのです。
     その傷が、その罪意識が彼らに残っているのです。確かにイスカリオテのユダは、裏切り者でしたが、彼らもまたイエス様を裏切ったのです。
     それだからこそ、あえてイエス様は十一使徒だけをオリーブ山に連れて行かれたのです。
     彼らの心の傷を癒やし、罪を赦し、そして彼らだけが見ている間に、天に昇って行かれたのです。
     本来ならば、マグダラのマリヤを始めとするイエス様に従って来た女性たちや、母マリヤと弟たち妹たち家族が、いても良さそうなのですが、イエス様は十一使徒だけが、その場に居合わせることを望まれ、またヨハネ・マルコの家から彼らだけを連れて行かれたのです。
     イエス様が天に上って行かれた後、神様は御使い(ガブリエル)を遣わされます。
    「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
     この言葉は非常に重要な預言です。
     それは、旧約聖書に書かれた「主の日」の預言を彼らは知っていますし、あるいは思い起こさせたからです。
     ゼカリヤ書によりますと、『その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。』と預言されているのです。
     この「主なる方」こそが、イエス様であることを、御使いは十一使徒たちに教えたのです。
     主イエス様は本当にきめ細やかな心遣いをなされるお方なのです。主は、たとえあなたが失敗しても、間違っても、ご一緒にその場所に、その時点まで、戻って下さるお方なのです。 そして悔い改めに導いて下さり赦して下さり、再び私たちを立ち上がらせて下さいます。
     最後に、ゼカリヤは、『私の神、主が来られる。すべての聖徒たちも主と共に来る。』と預言しています。
     つまり主の再臨の日、すなわち「主の日」には、私たちは、すべての聖徒たちと共に、主の後に続いて、この地上にやって来ることになります。その大群衆の中に、あなたも私もいるはずではありませんか。
     私たちのゴールは、主イエス様にお会いすることです。主の再臨が近いことは、議論の余地のないことです。私たちは、終わりの時代の、しかもその終わりの方に生きているのです。 大艱難時代が来る前に、公の教会は取り去られます。しかしその時が本当に訪れる瞬間まで、携挙の時まで、私たちは普通に生活し、世の光、地の塩でなければなりません。人々に、大ホールや映画館に設置された「非常用警告灯」で、なければならないのです。アーメン。》

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