◇◆◇日々のみ言葉
2018年5月10日(木)
◎聖書箇所【ルカの福音書22章21節~23節】
22:21「しかし、見なさい。私を裏切る者の手が、私とともに食卓にあります。
22:22 人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。」
22:23 そこで弟子たちは、そんなことをしようとしている者は、いったいこの中のだれなのかと、互いに議論をし始めた。
◎ショートメッセージ
《昨日と同じ箇所の学びとなります。
「そこで弟子たちは、そんなことをしようとしている者は、いったいこの中のだれなのかと、互いに議論をし始めた。」
とルカは書き記していますから、この時点には使徒全員が揃っていたことは間違いありません。
何度も書いていますが、ルカの福音書はマタイとマルコの福音書とは、「過越の食事」の記述内容の順番が逆となっています。
さて、弟子たちは互いに議論をし始めた、とありますが、これはどのようなことなのでしょうか。
まず疑いがかけられたのなら、私たちはどうしますか。自分の正当性を証明する為に、自分ではないことを、必死に訴えるのではないでしょうか。
としたら、ある政治家の秘書や、ある省の事務次官のように、イスカリオテのユダも、自分ではないと言うことを、訴えませんか。
しかし、イエス様はすべてをご存知なのです。イエス様は、誰が裏切り者であるのかを、先見の目を持って、すでに分かっておられるのです。
ある政治家の秘書や、ある省の事務次官が、いかに自分が正しいのかを、証人喚問で説明したとしても、罪を犯した自分自身をごまかすことは出来ません。
それだけではありません。
日本と言うこの哀れな国は、フランシスコ・ザビエルによって、もたらせられた真の神様であられるお方を排除しました。絶対者なるお方の存在を排除したのです。
絶対者なるお方であり、そして創造主なるお方は、何もかもすべてをご存知なのです。人や国民をごまかせたとしても、まことの神様をごまかすことは出来ません。
弟子たちが、次にすることは何でしょうか。
犯人捜しです。
誰が裏切るのか、互いに疑いの眼を向け始めたのです。それまでは、互いに助け合い、支え合って、イエス様に従って来た仲間を、疑い始めたと言うわけです。
こんな弱い弟子たちの為に、同じく私たちの為に、そしてある政治家の秘書や、ある省の事務次官の為にも、イエス様は十字架にかかって下さったのです。
人間は皆、罪人です。
だからこそ、救い主が必要なのです。
なぜなら、
その人がしたすべての事について、やがては神様の白い御座の裁きの場において、すべてが明らかにされ、その報いとして、火の池に投げ込まれると言う、「永遠の裁き」が用意されているからです。
しかし、永遠のいのちに至る「救いの道」も用意されているのです。》