◇◆◇2018年6月3日第一主日礼拝
◎本日の聖書箇所 【ヨハネの福音書14章19節】 (新約p.192上段左側)
14:19 「いましばらくで世はもう私を見なくなります。しかし、あなたがたは私を見ます。私が生きるので、あなたがたも生きるからです。」
◎メッセージの概要【あなたがたも生きる】
《イエス様が、このように言われた場面をもう一度おさらいしたいと思います。この時、主イエス様の一行は、まだヨハネ・マルコの家の二階の大広間に留まっています。すでにイスカリオテのユダは出て行きましたから、十一使徒だけが残されています。またこの時に、マッテヤとバルサバと呼ばれたヨセフが一緒にいたのかどうかは、ここからは分かりません。
さて、イエス様は「いましばらくで世はもう私を見なくなる」と言われました。実はこの言葉には、すでに伏線が以前、弟子たちに与えられているのです。
生まれつき盲人の青年を見たイエス様は弟子たちにこのように教えられたのです。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。私たちは、私を遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。誰も働くことのできない夜が来ます。私が世にいる間、私は世の光です。」
イエス様は、この世から隠遁生活を送られるのでしょうか。いいえ。この世からいなくなることを言われているのです。それは十字架の死以外にはありません。それは世から世の光が取り除かれることを意味しています。それゆえ暗闇がやって来るのです。
そして次に言われたことが、「しかし、あなたがたは私を見る」と言うことです。何かおかしいではありませんか。今十一人の弟子たちはイエス様を、その目で見ています。つまり、世だけでなく、彼らも見ることが出来なくなることを言っています。弟子たちから、彼らが愛する師であるイエス様が取り去られる時が、間近に迫っていることを預言しています。しかし、それで終わりではありません。「あなたがたは私を見る」と言うことは、今彼らがその目で直にイエス様を見ているように、再びその目で見る時が必ず来ると言うことなのです。
イエス様がよみがえられた日曜日の夜遅く、弟子たちが集まった部屋にイエス様が現われました。その時、クレオパ夫妻も、そしてマグダラのマリヤも、サロメもスザンナも他のマリヤもいました。しかし、なぜか使徒の一人であるトマスはいなかったのです。確かにこの時、十人の使徒たちはイエス様が生きておられる姿を見ましたし、イエス様に触ったのです。「あなたがたは私を見ます。」この時この預言は成就しました。しかしトマスは除外されてしまったのです。もちろんトマスはいじけます。しかし彼は、イエス様の言葉と約束をしっかりと握りしめ、信じるべきだったのです。イエス様は、「あなたがたは私を見ます。トマス以外は。」とは言われなかったのです。その一週間後のことです。ヨハネによりますと、
『十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らと一緒にいなかった。
それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして、私のわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」イエスは彼に言われた。「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」』と書かれています。
またこの約束の言葉は、十一人の弟子たちだけではありません。私たち主を信じる者すべての者に対する約束でもあるのです。
そのことを旧約の族長時代の人物ヨブが、このように預言しているのです。
「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。他の者の目ではない。」
そしてこの約束は、盲人に対する約束でもあるのです。たとえ生まれつき盲人であった者でも、その目で救い主イエス様を見る時が必ずやって来ることを預言していることになります。その預言が、エルサレムにいた盲目で生まれた青年に、雛形として成就したのです。彼はその目で、救い主である主イエス様を見ました。
さて、その次に「私が生きるので、あなたがたも生きる。」と言われました。これもおかしな話です。なぜならこの時イエス様は生きておられ、また彼らも生きていて、息をしているわけです。
ここでイエス様はご自分が間もなく死ぬことを言われています。そしてただ死ぬだけでなく、復活することを約束されているのです。イエス様がよみがえるのなら、彼らもまた死からよみがえることを約束されているのです。
つまりここではっきりと十一人の弟子たちは、死ぬことを言われています。使徒パウロは、その所の教理について、このようにコリント教会に教えているのです。
『ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。
もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
しかし今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。』と。
イエス様を信じる者は、たとえ死ぬ時が来たとしても、イエス様と同じように、やがて復活の体が与えられ、永遠に生きることになります。そしていつもイエス様と一緒にいることになるのです。それこそが「永遠のいのち」なのです。
最後に、主イエス様を信じる者には、すでに「永遠のいのち」の一部が与えられています。心の奥底で信じ、口で告白して救われ、聖霊様が内住している者は、その人から溢れんばかりの生きる命の水が流れて出しています。それは例え、あなたが感じられなくてもです。
故に、主イエス様と共に歩んでいる人には、まだ主を知らない人々とは違った輝きが、光が放たれています。それだからこそ、もっともっと命を燃やそうではありませんか。燃えれば燃えるほど、さらに聖霊様は上から、豊かな油を注いで下さると私は信じています。》