◇◆◇日々のみ言葉
2018年6月23日(土)
◎聖書箇所【ルカの福音書23章35節~38節】
23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
23:36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
23:37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。
23:38 「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
◎ショートメッセージ
《「どくろ」あるいは「ゴルゴタ」と呼ばれている所に来ると、ローマ兵たちは、イエス様とふたりの犯罪人を十字架につけました。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
マタイによれば、
『そのとき、イエスと一緒に、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。(マタイの福音書27:38)』と書かれており、この犯罪人が強盗であることが分かります。そして、仲間であることは間違いありません。
この時、かつてないほどの大群衆がこのゴルゴタの丘に押し寄せたと伝えられています。伝承では、四十万人以上の人々が集結したとも言われています。それこそ、エルサレム市内は、足の踏み場もないくらいの状態ではなかったのではないでしょうか。
さて、「民衆」すなわちユダヤの人々、そしてサンヘドリンの議員たち、もちろん大祭司カヤパを始めとする祭司長たち、多くのパリサイ人や律法学者たち、民の長老たちも集まって、成り行きを見ていたわけです。
「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
ルカは、ユダヤの指導者たちとローマ兵が、「自分を救って見ろ」と声を合わせて叫んだことを書き記しています。
これは、彼らの全員が、同じ考えを持っていたとは思えませんが、ただ一つ彼らに共通の考え方があったことは事実です。
「自分は救い主だと言っているのに、どうして自分を救うことができないのか、自分を救うことができないような救い主は、救い主としては失格だ。そんな救い主などいらない。」と言う考え方です。
確かに自分を救えない救い主など、面白可笑しくあるでしょう。しかし主イエス様はご自分を救えなかったのではありません。救おうとはされなかったのです。
イエス様が十字架から下りて来ることなど朝飯前であり、容易いことだったのです。しかしイエス様は、あえて神の権威を用いようとはなさいませんでした。
イエス様は多くの奇蹟を成されましたが、ただの一度でもご自分の為に奇蹟をなさったことはありません。
イエス様はシモン・ペテロに言われました。
『「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、私が父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今私の配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」(マタイの福音書26:52~26:54)』
イエス様の十字架の身代わりの死がなかったとしたら、私たち人類は、未だに永遠の滅びしかありません。
罪の無いお方が身代わりとして十字架にかかって死んで下されたからこそ、私たちに救いがあるのです。
そして「永遠のいのち」が与えられたのです。》